インタビューが始まって間もなく
ドナルド・キーンさんが発した言葉に
いきなり惹きつけられた。
「日本は恐ろしい国、そして一方では
非常に美しい国という矛盾が
私のなかにありました」
キーンさんはやや疲れた表情で
言葉を選びながら言った。
インタビューしたのは2月の終わり、
東京は北区にあるキーンさんの自宅だった。
92歳にして執筆意欲は衰えず、
話を聞くことができたのも
石川啄木の評伝を書いている合間をぬって
なんとか時間をつくってもらった結果だった。
インタビューの目的は
戦後70年となるタイミングで
戦争体験を語ってもらうこと。
「日本は恐い国、そして美しい国」という言葉は
若いころの日本のイメージを聞いたときに
キーンさんが思わず口にした言葉だった。
「まったくの偶然でしたが
源氏物語の英訳を買ったんです。
買った理由は、2冊で非常に安かったからです。
お買い得だと思って。
源氏物語があるということすら
まったく知らなかったのですが」
日本は美しい国。
キーンさんがそう思ったきっかけは
源氏物語との出会いだった。
真珠湾攻撃まで1年半と迫っていた
1940年の夏のことだ。
当時、ヨーロッパでは、
ナチス・ドイツの軍隊が進行し、
じきにアメリカも巻き込まれるのだろうと
キーン青年は暗い予感を抱いていた。
「私は反戦主義者です。だから
戦争を伝える新聞は読まないことにしました。
その代わりに源氏物語を読んでいたのです。
源氏物語には戦争がひとつもないんです。
それから死ぬ者もいないです。
登場人物が何のために生きているかというと
それはお金を集めるためではなく
有名になるためでもなく、
美のために生きていたという感じでした」
もし初めて会った日本文学が
「平家物語」だったとしたら、
キーンさんの人生は
まったく違うものになっていただろう。
生涯を日本文学の研究にささげることも、
90歳を迎える前に
日本国籍を取得することもなかったかもしれない。
そう考えると、「源氏物語」との出会いは
奇跡のようにすら感じられる。
ところが、当時の日本のふるまいは
美しい、とはほど遠いものだった。
「怖い国でした。要するに、
中国を占領して、いろいろな街で悪いことを、
爆弾を落として‥‥」
そして1941年12月8日
日本が真珠湾を攻撃、
キーンさんにとっては母国アメリカと
日本との戦争がはじまる。
当時コロンビア大学で日本語を学び始めていた
キーンさんは、考えたすえ、
アメリカ海軍の日本語学校への入学を決めた。
戦争を否定していたキーンさんが
なぜ自ら軍に志願したのか。
疑問をぶつけると
キーンさんは記憶をたどるように口を開いた。
「戦争が始まったとき、19歳でした。
私は反戦主義者でしたから、
どんなことがあっても、鉄砲を持って
敵を殺したくないと思いました」
当時は徴兵制が敷かれていて
召集されれば戦地に行かなければならない。
それならばと、武器をもつ兵士ではなく
日本軍の文書を読み取ったり、
捕虜を尋問したりする日本語将校の道を選んだ。
暗号を解読したりすることで、少しでも早く
戦争を終わらせることができるかもしれない。
キーンさんはそう考えたという。
ところが戦場に赴いたキーンさんは
「恐い国、美しい国」という日本人への思いを
さらに複雑にする出来事と遭遇することになる。
(続く) |