三谷龍二さんの、これまでの「場所」。 三谷さんからのレポートを掲載する前に、 三谷さんがこれまでどんな「場所」にいたのかを お聞きしました。 全5回でお届けします。

その2 なにかが変わっていく瞬間に。
ほぼ日 職業訓練校の木工科に通いながら、
結婚もしたことで、
稼ぐ必要が出てきた。
それが20代後半の三谷さんですね。
三谷 そう。市営住宅に入ったんですけども、
6畳ひと間を仕事場にして、
そこでできることを何しようかって考えて
ブローチをつくりはじめたんです。
ほぼ日 なるほど、ブローチだったら
彫刻刀で、できますね。
鋸や金槌を使わなくても。
三谷 なくてもできるし、
6畳の部屋でできる。
なにしろ稼がないとならなかった。
ほぼ日 切羽詰まっていた。
三谷 そう、切羽詰っていたんです。
5個ぐらい、サンプルを作って、
それを持って、このあたりの
ペンションを訪ねて営業をしました。
ほぼ日 「置いていただけませんか?」と。
三谷 そう。当時、ちょうど
ペンションブームのはじまりのころで、
そういう所っていうのは、
雷鳥の木彫りをお土産に並べる、
というのとは
ちょっとイメージが違うんでしょうね、
ぼくの持ち込んだブローチが
ちょうどよかったみたいで。
ほぼ日 お土産物を置くにしても、
民宿や旅館とはちょっと違うものを、
ということでしょうしね。
そのブローチに、
お手本はあったんですか?
三谷 なかったです。
紙に描いてみて、
こんなのあったらいいな、と、
木彫りで、つくってみたんです。
むかしつくったブローチ、まだすこし
残っているんじゃないかな‥‥。
ほぼ日 うわぁ、かわいい!
ああ、もうすでに、
三谷さんらしいですよね。
三谷 これは、最初のブローチではないですけどね。
自分でも、こんなかわいいブローチが作れるって、
思ってなかったです(笑)。
ほぼ日 一番最初に作ったのはなんですか?
三谷 横向きの牛さんのね、
ちっちゃいブローチを作ったと思う。
顔は横向いていて、
シカやキツネ、馬など5種類つくって。
ほぼ日 へぇー! それは売れたでしょう。
民宿からペンションになる時代に、
そこに泊まろうというお客さんには
ものすごくうれしい買い物ですよ。
三谷 そうなんですよ。
ペンションの人たちもね、
別に売れると思って買ってくれたわけじゃなくて、
「こいつは買ってやらないと、
 ちょっと切羽詰ってるな」って
見えたみたいなんだ(笑)。
で、5個見本作って、「注文をください」。
そのとき2月で、
ゴールデンウィーク前に
納めますからっていうんで注文を取ったの。
もう何もないんだよ、
5個しかないんだよ。
それで注文なんか取ろうとしたんだよ。
ほぼ日 たくましい。
三谷 きっと、役者が入ってたんだね、どこかにね。
それで受注ができて、
4月のゴールデンウィーク前に持っていって、
買ってもらいました。
ほぼ日 三谷龍二さんの木工のスタートは
ブローチだったんですね。
その、ブローチの時期は長いんですか?
三谷 結局その感じでペンションとかホテルとか、
長野県をずっと回ってたわけです。
それを、僕、10年やったんですよ。
ほぼ日 10年!
三谷 はい。車の中に作ったものを積んで回って。
その場で「いくつ補充欲しい」って言われると、
それをまとめて伝票切るっていう。
ほぼ日 全部1人でですか?
三谷 1人でやってました。
1981年から、10年間。
始めてから2、3年経って、
84年ぐらいからかな?
GRAIN NOTE(グレインノート)っていうお店が
今でも松本にあるんですけど、
それを木工の仲間と一緒に始めました。
家具3人と僕とで。
そのころからバターケースとか、
スプーンとか、「使えるもの」を
つくりはじめました。
ブローチじゃなくて、
アクセサリーじゃなくてっていうことで。
ほぼ日 他のみんなは椅子やテーブルを作ってる中で、
三谷さんはちっちゃいものを作ったんですね。

▲これは現在の三谷さんの「ちいさな」木工作品。
三谷 ちっちゃいけども、少し使えるものに
少しずつ変わってきたっていうか。
それが84年、
そして85年からクラフトフェア
(クラフトフェアまつもと)がはじまるんです。
ほぼ日 三谷さんは、クラフトフェアを
立ち上げたメンバーのひとりですよね。
その4人が核になったんですか?
三谷 そのうちの2人と、他の木工仲間ですね。
ほぼ日 松本っていうのは民芸家具が有名ですが
もともとそういう土壌が?
三谷 そうですね。
そのころは、民芸家具にいたり、
そこから独立したばかり、
という人が多かったんですよ。
70年頃に入ってきて、
10年ぐらい勉強してっていう人たちが
ちょうど70年代の終わりから80年頃に
独立し始めたんです。
ほぼ日 新しい世代が自分たちの表現で、
自分たちが使いたいものを作る。
三谷 そうそう。
「工房スタイル」っていうらしいけれども、
今までは、会社みたいな木工所しかなかったのに、
自分で工房を持って自分で運営しながら、
家具を作るっていうスタイルが
そのころからできたんです。
ほぼ日 そうか。そういう人たちを
世の中にちゃんと見せる?
三谷 うん。見せるっていうか、
自分たちが見てもらいたいと
思ったわけですよね。
家具ってなかなか見せる場所もないし、
みんな始めたばっかりなんだけども、
どこに売っていいかわかんない、
っていう時期だったから、
「じゃあ、集まってなんかやろう」
みたいな気になったわけだね。
ほぼ日 ていうことは、広場を借りるのに
お役所とかそういうところと
おつきあいしなきゃ
いけなくなってくる?
三谷 行政から見れば、なんか見た感じ、
ちょっとまともじゃないような感じの集まりが。
ほぼ日 ヒッピーか? みたいな(笑)。
三谷 ほんとうに当初は
ヒッピーっぽかったんですよ。
ヒッピーのお祭り?
みたいな感じで思ってる人もいたんです。
ほぼ日 じっさい、
影響を受けてる世代ですよね。
三谷 そうそう。
そのころはもう東京には
ヒッピーがなかなかいづらくなって、
中央線伝ってここへ来た、
っていう人も多いんですよ。
ほぼ日 三谷さんはヒッピーじゃないんですか?
三谷 僕はヒッピーじゃないですよ(笑)。
けど、すっごい多かった、周りが。
ほぼ日 なるほど。
そういう人もいたし、
「10年修行しました」っていうような人たちが
自分たちの表現をして見てもらう場所を作った、
それがクラフトフェアだった。
今とは規模違うわけですよね。
三谷 最初のときは45(ブース)だったっけな。
仲間を集めたらそれくらいになって。
ほぼ日 それは成功したんですか?
三谷 最初、人は誰も来ないよね。
お客さん来ないよね。
来るわけないよね。
しかもその日が、風が強くて雨交じりで、
相当コンディション悪くて。
ほぼ日 厳しい!
三谷 そのころは今のようなタープがなくて。
ブルーシートを買って、
それを紐で結んでブースをつくるんだけど、
風で飛ばされたりとか。
それでも、何もなかったところから、
45組もが芝生に店みたいなのを出している、
その、なんていうかな、
キャラバンみたいな感じで、
一瞬バッと何かが
立ち上がった感じがあったんだよね。
ほぼ日 はぁー!!
三谷 それはね、そのとき参加した人
全員が思ってたみたいです。
ちょっと感動ものだったんですよ。
ほぼ日 へぇー!
その、何かが変わっていく瞬間みたいな。
三谷 なんか一瞬、「あっ」って思いが、あった。
雨交じりで悲惨な感じもあったんだけど、
でもなんか熱いものがあったんですよ。
ほぼ日 「ここから始まるぞ」。

(つづきます)

2010-09-20-MON
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