三谷龍二さんの、これまでの「場所」。 三谷さんからのレポートを掲載する前に、 三谷さんがこれまでどんな「場所」にいたのかを お聞きしました。 全5回でお届けします。

その3 バターケースは10年売れなかった。
ほぼ日 「野外でクラフトフェアをやる」
ことを、思いついたきっかけ、
おぼえていらっしゃいますか。
三谷 アメリカのクラフトフェアを見てきた人の誘いで
「スライドがあるから、一緒に見よう」
と集まったのが最初のきっかけでした。
それで、みんな「いいなぁ」って言ってて、
「こういうのをここでもできないか」
みたいな感じになったわけですね。
ほぼ日 日本にはなかった?
三谷 野外クラフトフェアはなかったと思います。
ほぼ日 「最初は誰も知らなかった」
とおっしゃっていましたが
今では「クラフトフェアまつもと」って
一般のお客さんとともに
日本中のギャラリーさんが
作家の開拓や買い付けに来る、
とてもにぎやかな場所になっていますね。
そこに至る道のりって──。
三谷 参加者が、毎年増えていって、
10年目で参加ブースが
350ぐらいまでになったんです。
けれどあの会場(あがたの森)だと
350は多すぎるんですよ。
今、280ぐらいにしてるんですけど、
それでもちょっと多めなくらいで。
350のときは真ん中の芝生もぎっしりで。
あそこ、真ん中ポカッと空いてるのがいいんです。
ピクニックみたいな感じで
弁当食べたりとか遊んだりとかいうのがいいんで、
それができなくなったときがあって、
じゃあ、選考をしましょうということになった。
それまでは無審査だったんですけれど。
ほぼ日 なるほど。
三谷さん本人はどんなものを?
三谷 そのころから少しずつ器も作り始めました。
家具をやってる周りの人間がいて、
そういう長く使える、
オイルフィニッシュの木のものっていうのは
いいものだなっていう思いがありました。
それから職業訓練校のときに、
シェーカー家具なんかを見てるわけですよ。
シェーカーって、家具もいいけども、
雑貨が、すごくいいんですよね。
そういうものもあるなっていうのは思ってて。
それと、東京にいた時、
民芸店で栗の木のね、
器を買ったことあるんですよね。
そのころは仕事にするとか
考えてないんですけれども、
木彫りを趣味でやるみたいなところで
こういうものもいいなと思っていたんですよね。
そんなふうなことがあって、
長く使える、オイルフィニッシュした、
木で、価値のあるもの。
そもそも家具はみんなのほうが
うまいですからね、自分より。
ほぼ日 修行10年ですものね。
三谷 それはそう(笑)。差があるんです。
これはちょっと太刀打ちできない。
でも同じ考え方で
いろいろあるんじゃないかっていうことになって、
木の器とか、バターケース、スプーン、
そういうものを作り始めたんです。
ほぼ日 おそらく当時、
木のサラダボウルみたいなものは
一般的にあったと思うんですが、
三谷さんのようなものをつくる人は
たぶんいなかったですよね。
わりとこう、すんなり、
受け入れられた‥‥んですか?
三谷 いや、全然。
ほぼ日 全然?
三谷 バターケースだって
10年売れなかったですよ。
ほぼ日 ええっ?
いま三谷さんの代名詞みたいになってる
バターケースがですか。

▲三谷さんの、初期のバターケース。
三谷 お店に置いてもらってもね、
埃を呼ぶんですよね(笑)。
ほぼ日 埃を呼ぶ(笑)。
三谷 真っ黒になって(笑)、
もうこれじゃ売れないなと思って、
また交換するんです。そんな感じで。
ほぼ日 へぇー。10年!
ということは、クラフトフェアのブースが
最多になった時代でもまだ?
三谷 なかなかですね。
まぁ、クラフトフェアに来る人には
多少買ってくださる方がいたけれども。
ほぼ日 あの、食えてはいたんですか?
三谷 一応食えてました。
ブローチが売れていたから。
そして、だんだんと
器やバターケースが出るようになって、
10年目にブローチをやめたんです。
自分としてもあんまり外に行かないで、
工房にいたかった。
そのために「もう営業はしません」って、
切り替えたわけです。
ほぼ日 「ブローチやめます」
「雑貨、器を作ります」と?
三谷 そうそう。
その前の段階で、長野に旅行に来た
東京とか関西のお店の人から
電話をいただいて、
置いてくれるっていう状況に
少しずつ、なってきていて。
ほぼ日 それは、いま、三谷さんが
活動の場となさっている
ギャラリーのようなところですか。
三谷 はい、奈良の「くるみの木」、
当時表参道にあった
「ファーマーズテーブル」などです。
売れないと言っても
少しは売れてたわけで。
ほぼ日 すこーしずつ、
そうやって扱うお店が出てきてたんですね。
三谷 うん。お土産屋さんじゃない所で
売れるようになって。
これは観光地じゃ売れないっていうことが
はっきりしていたっていうことが
あるんだろうと思うね。
ほぼ日 おもしろいです。
向こうにしてみても、芸術大学だとか、
徒弟制度の中だとかから出てきてない人、
野から出てきた人ですよね、三谷さんって。
彼らにとっても三谷さんを扱うっていうのは
結構な思い切りですよね、当時。
三谷 そうかもしれないね。
「ファーマーズテーブル」は、
開店のときから置いてくださってるから、
両方に、いいきっかけだったんでしょうね。
向こうのイメージとも合ってたんでしょう。
ほぼ日 「こういうものが欲しかったんだ」っていう、
都会的な雑貨屋さんのセンスと、ですね。
三谷 ちょっと自然な感じの店っていうのが、
わりとあのころじゃ少なかったと思うんです。
「ファーマーズテーブル」とか
「くるみの木」とかっていうのは、
本当に先駆けだと思うんだけど。
広尾に「F.O.B COOP」が
あったぐらいでしょうか。
ほぼ日 「F.O.B COOP」は、
輸入もの、大量生産品が多いですが、
気持ちとしては同じ世界ですね。
「ああいうもの、いいよね」
っていう中にあったんですね。
三谷 それにちょっと手が加わったもの、
ってことがあるんでしょうね。
ほぼ日 そんなふうに少しずつ売れてきたので、
三谷さんも「よし!」と思ったわけですね。
ブローチをやめて、器に行くぞと。
「ええっ?」って言われなかったんですか、
もっとブローチ作ってくださいよとは。
三谷 多少あったけれど、
バタッと止まりましたよ。
なんだ、いいんだ(笑)、みたいな感じ。
ほぼ日 決意が伝わったんでしょう。
三谷 そうでしょうね。
僕も毎回行ってるわけだから、
やっぱり人としてもすごく繋がっていた。
だから理解してくれた面もあるんじゃないですか。
ほぼ日 三谷さんは工房にいる時間が増えたわけですね。
これでもまだ1991年ですから、
ここから20年、器ひとすじ。
三谷 はい。それから少ししてからかな、
展覧会っていうのを始めたんです。
最初は、小田原の「菜の花」
(現在の「うつわ菜の花」)ですよ。
まだ喫茶店しかないときです。
これは、建築家の
中村好文さんを通じて
知り合ったんです。
同じ頃、どちらも中村さんに
依頼していたものですから。
ほぼ日 伊丹十三記念館の、中村さん

(つづきます)

2010-09-21-TUE
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