第7回
カレーを研究した日本人が
たどり着いた魔法の粉
2017.3.19 更新
# カレールウの前に
カレー粉あり
外でおいしいカレーに出合ったら、「これを自宅でも体験したい」と思うのは普通の感情である。またカレー文化の普及を考えたときに、外食産業の盛り上がりとは別に内食、家庭料理への浸透というのも大事な要素だ。イギリスからカレーライスがやってきた。どうやらうまいらしい。実際に外で食べてみた。これはうまい! 自宅でも食べられないだろうか。
そこにニーズがあるわけだから、食品メーカーは商品開発に乗り出した。
輸入品を模倣したカレー粉が国内メーカーから生まれ、そこにさらに味つけまでできるカレーフレークが生まれ、ついにはカレールウが誕生する。結果、カレールウが日本全国の食卓に魔法をかけた。誰が作っても手軽で簡単においしいカレーができあがるなんて信じられないアイテムだっただろう。おかげで、全国で“あのおいしいカレー”は再現されるようになったのだ。
そのさきがけとなったのは、もちろん、カレー粉である。カレーがカレーであるために不可欠なアイテム。ひとふりすれば、あの香りを演出できるのだから、当時の日本人がどれだけ驚いたことか。
イギリスからやってきたカレー粉で最も有名だったのは、C&B社のものである。クロスとブラックウェルという2人のイギリス人が開発したこのカレー粉は、瞬く間に日本中に流通するようになった。その製法は当然のことながら秘密にされていた。「東洋の神秘的な製法により……」とだけうたわれていて、何が使われているのかは知る由もなかったのだ。高価な舶来品だったため、当然、国内で独自に生産できるようにしたいと考える人が現れるようになる。神秘への挑戦が始まる。
国産カレー粉の開発において、日本で一番の功績をあげたのは、山崎峯次郎という男である。彼は、スパイスが手に入りにくかった当時の日本で、薬問屋などから個別の香辛料を手に入れて、日がな調合に励んだ。その苦悩の日々は、カレー業界では伝説と化している。おびただしい失敗を繰り返し、ミックススパイスが倉庫の中に山と積まれていく。あるとき、失敗の山から何気なく手にしたひとつから求めていたカレーの香りがするのを発見する。ブレンドしたスパイスたちが一定期間熟成され、香りがまとまったのだ。
結果、1923年に日本で初めての純国産カレー粉が誕生する。レシピの存在しなかった日本で、舶来のカレー粉をブレンドするのではなく、個別の香辛料を調合することでカレー粉を生み出すのは、至難の業だったはずだ。そのカレー粉はその後、通称「赤缶」と呼ばれるカレー粉につながっていく。そう、山崎峯次郎は、現エスビー食品の創業者である。
彼が世に残した数々の著書は、いまも日本のカレー界、スパイス界においては貴重な資料だ。とくに『香辛料』という全5巻のハードカバーの本は、山崎氏の執念がにじみ出ているようで、後にも先にもあれ以上に香辛料について突き詰め、膨大な文字量で記した書物は存在しない。日本のカレー文化に最も貢献した人物は山崎峯次郎である、と断言しても異論を唱えられる人はきっといないだろう。
# スパイスは数多くブレンドすれば
良いというものではない
こうして今から70年近く前に生まれたカレー粉は、日本中に支持され、使われることとなる。特に業務用のカレー粉としては今も独占的なシェアを誇っている。すなわち、我々は、いつの間にか赤缶を使って作られたカレーをおいしいカレーのアイコンとして受け入れるようになっていたのだ。
赤缶の配合レシピは、エスビー食品内でもほんのごく一部の人間にしか明かされていないトップシークレットだそうだ。かつての取材では金庫に保管されているとの話も聞いたことがある。
ただ、この赤缶の配合についてはちょっとだけ異論がある。赤缶は、30種類以上のスパイスが混合されている。ところがカレーを作るのに30種類以上のスパイスを使うというのは、あまり賢明な方法だとは思えないからだ。たとえば、インドでは10種類以下のスパイスを上手にブレンドして数々のおいしいカレーが作られている。
イギリスで生まれたカレー粉も、数々の文献(レシピ)を紐解いてみると、たいていは、10種類程度のスパイスを使っていて、それ以上の種類は登場しない。それなのになぜ日本のカレー粉だけが30種類ものスパイスが入っているのだろうか。そのカレー粉の香りは本当にいい香りなのだろうか。
かつて、僕は、カレー粉に関するトークイベントで、自作のカレー粉を3種類準備し、赤缶を含めて4種類のカレー粉をお客さんにブラインドでチェックしてもらったことがあった。僕が作ったカレー粉は、Aが5種のスパイス、Bが10種のスパイス、Cが15種のスパイスを配合したものだ。Dとして30種以上のスパイスをブレンドした赤缶を準備する。すべてを同じ形状の容器に入れ、約60人ほどのお客さんに一番いい香りがどれかのアンケートをとったのだ。
結果、8割以上の票をAとBのカレー粉が二分することになった。5種類と10種類のスパイスをブレンドしたカレー粉が圧倒的に人気だったのである。たった60人の被験者で偉そうなことを語るつもりはないが、スパイスのブレンドは、種類が多ければいいわけではないことは、もうずっと前からカレーのルーツであるインドという国の料理で証明されている。
# カレーを作るスパイスは
5種類で十分?
5種類のスパイスは、ターメリック、レッドチリ、クミン、コリアンダー、ガラムマサラである。ガラムマサラというのは、5〜6種、ものによっては7〜8種ほどのスパイスがあらかじめミックスされたものだから、厳密に言えば、10種前後のスパイスがミックスされたカレー粉ということになるけれど……。
この5種類というのは、日本人が、香りをかいで「カレーだ!」と反応するには十分すぎるラインナップである。僕は、ここ数年、「自分史上最高のカレー粉を作ろう」というタイトルのワークショップをよく開催している。それは、この5種類を準備して、スパイスのブレンドについて解説し、順にひとつずつを加えていく方式で行う。
ターメリックを密閉容器に入れ、続いてレッドチリを加える。この時点では、まだウコンと唐辛子を合わせた状態だから、カレーの香りにはならない。ところが、3つ目にクミンを入れた瞬間にほとんどの人が「カレーだ!」と反応する。それで首を傾げいている人がいたとしても、4つ目にコリアンダーが入れば、全員が「おいしいカレー」を連想できる香りになる。5つ目のガラムマサラは必要ないくらいだ。
こんな風にスパイスをブレンドしてカレー粉を作るワークショップができるのは、インド料理というスパイスブレンドにおける先生が存在するからである。インド料理の知見がそれなりにある人からすれば、これら数種類のスパイスでおいしいカレーができることは一般常識レベルである。だから、こんなことで僕は全くエラそうな顔はできない。
# 4ピースバンドのカレーと
オーケストラのカレー
たった5種類のスパイスを配合すれば十分なはずのカレー粉に30種類ものスパイスが入ったのは、山崎峯次郎が試行錯誤した時代にインド人という先生が日本に存在しなかったからである。先生不在の環境で独学でカレー粉づくりに挑んだ孤高の生徒、山崎氏は、カレー粉の香りがするまで愚直にスパイスをブレンドし続けるしかなかった。あれじゃない、これじゃないとスパイスを加え続け、30種類ものスパイスをブレンドすることになったのだろう。
料理に「正解・不正解」はなく、商売に「勝ち・負け」は存在する。すなわちカレー粉として何種類のブレンドがいいのかは好みの問題であるが、商売上は、みんなが買ってくれるものが勝ちとなる。そういう意味では、赤缶は無敗を誇る商品だ。
ブレンドするスパイスの種類が少ないのは、選び抜かれた個々のスパイスの香りが際立ちやすく、さらにそれらが高い次元で調和する。料理の世界では足し算よりも引き算の方が難しい。ただ、多くの人に親しんでもらうためには、足し算をしたほうがいい結果を生む傾向にある。ブレンデッドウィスキーは大衆に受けるが、愛好家はシングルモルトを好むのと一緒かもしれない。
スパイスの香りを楽器から生まれる音と捉えてみても面白い。ジャズの世界でいえば、トリオやカルテットの演奏は、演奏家の個性が出やすい。誰かが少しミスしてしまったら台無しになるかもしれない。でも、20名近い演奏家で構成されるビッグバンドなら、少々のミスは許されるだろう。全体として聴く人の耳には心地よい音楽を届けることができそうだ。4ピースバンドのロックとオーケストラで演奏するクラシックとを思い浮かべてもらってもいい。
どちらの音楽もすばらしい。どちらのカレー粉も素晴らしい。僕のワークショップでシンプルなミックスのカレー粉に支持が集まったのは、たまたまそういう好みの人たちが多かったからなのだろう。そもそも対象が、カレーのワークショップに足を運んでくれるような人たちだから。
# それでも「赤缶」がすごいわけ
30種類以上のスパイスをブレンドしたエスビーの赤缶は、何十年もの間、圧倒的なシェアで売れ続けてきた。我々日本人は長い間、赤缶の味と共に育ってきたのである。「これがカレー粉の正解ですよ」という味覚体験を繰り返してきた。すなわちビッグバンドやオーケストラのカレーが日本のカレーの特徴だ。だからレストランのシェフの間では、今でも「赤缶がないとうちの味にならない」という声が今も絶えないという。
こうして、山崎氏の生み出した香りは日本のおいしいカレーのシンボルになった。インドカレーの香りと日本のカレーの香りの違いはここにあるし、世界のカレーを見渡してみても、30種類以上のスパイスをミックスしないと成立しない料理は存在しない。だから、日本のカレーだけが世界において特別な風味を持つ結果になっているのだと思う。
そして、それが日本に独自のカレー文化を生むのにどれだけ貢献したことか! どんな分野でも知らないことに触れるには立派なマニュアルがついてくる。新商品を買うときも経験のないサービスを利用したり新しい技術を導入したりするときも。でも、便利なマニュアルがあるせいで、思考はストップする。自分で考える必要がなくなるからだ。カレー粉のマニュアルを持たない日本人は、山崎氏に代表されるように長い間、カレーという料理と真剣に向き合ってきた。おかげでカレー偏差値は急上昇したのである。インド人という先生が日本にやってくるのが遅くなってよかったと本当に思う。
……つづく。
2017-03-19-SUN
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN