代々木上原に「ラファソン古賀」というフランス料理店がある。ここのランチに提供されるカレーはスッキリと洗練されたソースが滋味深く、おいしい。古賀シェフは、7時間から8時間ほどかけてブイヨンをひく。立派な牛肉と香味野菜を煮込むが、だしがらはすべて捨ててしまうという。具の全くないさらっとしたカレーが出来上がるが、ソースのうまみはかなりのものだ。
フランス料理のテクニックを習得したシェフがカレーを作る場合、基本的にはブイヨンをひくことが多い。かつて、ホテルオークラのビーフカレーを取材した時も同じだった。長時間煮込んでひいたブイヨンをカレーのベースと合わせてカレーソースに仕上げる。ソースにうま味を生み出した素材たちはすべて捨て、ビーフカレーの注文が入ると、ステーキ用の牛肉を新たにソテーして、カレーソースと合わせて提供するスタイルをとっていた。
一方、インド料理では、スープを取るという行為は基本的に行わない。高級レストランで一部、別鍋でスープを取ることがあるが、メジャーな手法ではない。鶏肉を煮込めば鶏からだしがでるし、マトンを煮込めばマトンからだしが出る。具として味わう食材からでる味をそのままカレーに仕上げるのがインドスタイルだ。
長時間煮込むというスタイルもこのブイヨンから派生したものと推測される。5時間煮込んだカレー、10時間煮込んだカレーなんてうたい文句がカレー店の店頭を賑やかすのは、日本でしかみたことがない。
カレー粉と小麦粉をオーブンで焼くというのは、洋食系のカレーの常套手段である。僕が最も驚いたのは、本所吾妻橋にある「レストラン吾妻」で、低温のオーブンで4時間焼き続けるそうだ。そうでなくても、例えば箱根「富士屋ホテル」や横浜「ホテルニューグランド」などの老舗ホテルはたいてい、カレー粉と小麦粉が入ったタイミングでオーブンで均一に加熱する。そうすることで、カレーソースに切れが出るという。
毎年、インド料理を研究するためにインドを訪れている僕が、現地で購入したもので愛用しているものがある。スパイスボックスと呼んでいるものだ。直径20センチちょっとのステンレス製の安っぽいケースで、ふたを開けるとうち蓋がついていて、その中に7つの小皿が入っている。この小皿によく使うスパイスを入れて保存しておくというわけだ。ライブクッキングや料理教室などの現場に持ち込むと周囲の評判がよく、必ず、「欲しい」「どこで買えますか?」などの話になる。
肝心なのは、このスパイスボックスがたいてい、インドの家庭のキッチンにあるということだ。すなわち、インド人の主婦たちは、7種類程度のスパイスで365日、各3食の食事を作っているということである。レストランのシェフでもひとつのカレーに使用するスパイスの種類は、多くて10種類程度。素材に適したスパイスを必要最低限だけ選択して上手に利かせるのがインド料理のスタイル。一方で、日本のカレーは、使用するスパイスの種類の豊富さがウリとなる。
2016年のミシュランガイドに掲載され、話題になった荻窪のカレー専門店「トマト」では、30種類以上のスパイスを、同じくミシュランガイドに掲載された神保町の老舗カレー専門店「共栄堂」でも20種類以上のスパイスを配合していることを謳っている。スパイスの種類が多いとカレーが旨くなるかどうかは好みによって変わるところだが、複雑で奥深い風味を醸し出すことは約束される。日本で最も流通しているカレー粉は、エスビー食品の通称赤缶だが、30数種類のスパイスがブレンドされている。イギリスやインドで製造されるカレー粉にこの感覚は通用しない。
隠し味は、カレーを作る者にとって永遠のテーマである。少なくとも日本では。カレールウ業界最大のヒット商品であるハウス食品の「バーモントカレー」は、「りんごとはちみつ」を謳い、料理本やレシピを紹介する雑誌では昔からカレーを煮込むときにマンゴーチャツネを加えるとうまいとされてきた。インド料理においてかくし味という概念は存在しない。マンゴーチャツネはカレーの付け合わせとして食卓に上ることはあるが、カレーと一緒に煮込む人はいない。
隠し味を多用する手法が一般化しているのは、欧風カレーの世界である。その名の生みの親である「ボンディ」のカレーの特徴は、フランス料理に使われるデミグラスソースの存在と、フルーツをはじめとする隠し味の多用。それ以降、世の中に生まれた欧風カレー専門店では、ありとあらゆる隠し味が使用され、複雑濃厚な味わいがおいしいカレーの代名詞のようになった。そして、もれなくこの“隠し味”はその名の通り、門外不出のアイテムとしてどの店でも秘密にされている。これまでに僕が内緒でカレー店の店主から教えてもらった隠し味には、しょう油やソース、ジャム、チョコレートなどの想像に難くないものだけでなく、ゆず胡椒やらうなぎのたれやら、ありとあらゆるものが隠し味に使われていて、聞くたびに納得したり面喰ったりしている。
ひと晩寝かせたカレーはおいしい。誰もが一度は聞いたことのあるセリフである。風味が丸くなる、うまみが増す、濃縮して味わいが強まる、などなど理由はいくつもあるが、これは家庭のカレーだけの話ではない。レストランでも“寝かせる”という手法は常套手段だ。
ざっと7つの手法を紹介したが、これだけのことが今の日本のおいしいカレーを生み出している。しかも、この7つは主な手法であって、個々のカレーができあがるまでに費やされる労力はここでは全く説明しきれない。そして、いま、この瞬間も全国各地のカレーシェフたちは、もっとおいしいカレーを作るために頭をフル回転させていることだろう。