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エ☆ミリー吉元
こんにちは。
1993年東京都生まれ、
父はマンガ家のバロン吉元です。
美術系の中学校・高校・大学に進学し、
留学先のイギリスから帰国。
「アーティストとしてがんばるぞ!」と、
意気込んでいた大学4年生の夏、
倉庫で父の生原稿を大量に発掘した日をキッカケに、
バロン吉元のマネジメントをはじめることを決意。
卒業後は、バロン作品の魅力を
ひとりでも多くの方にお届けすべく、
展覧会のキュレーションやイベント開催、
書籍装丁、広告デザイン等、幅広く手掛けてきました。
また、自身の作品制作と並行して、
リイド社のマンガレーベル「トーチ」の
編集者としても活動中。
近年はマンガ原稿の保存問題について
情報発信も行っています。
くわしくは公式ページをご覧ください。
X Account:
@_emilioemily_
Instagram Account:
@emily_yoshimoto
エホッシー
生原稿の保存作業にいそしむ私を、
応援しに突如あらわれた、
流れ星の化身....らしい。
ケーネンレッカー
長いあいだ、
バロン吉元の生原稿にくっついていたら、
マンガのおもしろさに目覚めてしまった、
ホコリ....らしい。
静香さん(しずか)
夫はマンガ家・みなもと太郎先生。
1949年生まれ。
小さな頃からマンガが好きで
高校在学時に同級生らとマンガを描きはじめる。
その中にはのちの一条ゆかり先生もいらっしゃり、
上京も、一条先生にアシスタントとして
呼ばれたことがきっかけとのこと!
編集部そばの旅館で缶詰になり仕事をしていたところ、
偶然みなもと先生と同じ場所で
缶詰になっていたことがおふたりの出会いで、
ご結婚後もみなもと先生のアシスタントとして、
多数の作品制作に携わられました。
私が静香さんと初めてお話ししたのは、
2022年に行われたみなもと太郎先生を偲ぶ会でのこと。
我慢していた思いが溢れたように、
私はみなもと先生との思い出を、
静香さんへワッ‥‥と話してしまったのですが、
そんな私を、静香さんは優しく、
どこかみなもと先生を感じさせる
すこし困ったような笑顔で受け止めてくださったことを、
鮮明に覚えています。
現在は、みなもと太郎作品の著作権管理をされながら、
生原稿の捜索・保存と並行して、
お仕事場の片付け、膨大な資料の整理を
おひとりでなさっています。
1967年、『兄貴かんぱい』でデビュー。
1970年に「週刊少年マガジン」で連載がスタートした
ハードボイルドギャグ漫画『ホモホモ7』が人気を博し、
1979年には大河歴史ロマン「風雲児たち」がスタート。
みなもと先生の綿密なリサーチと
分析力のもとに確立された、
まさに「みなもと史観」で展開される本作は、
2021年にお亡くなりになる直前まで
連載がつづけられました。
教科書でしか見たことのない、
いわゆる歴史上の人物でも、
『風雲児たち』を読むと、
「私たちと同じ人間なんだ!」と
すごく身近な存在に感じます。
そういった人たちが繋いできた
歴史の先にいまの私たちが生きてるんだなと、
歴史の中に体温を感じることのできる作品です。
みなもと先生といったら、
作り手としてだけでなく、
ジャンルを横断したマンガ評論家としても
大きな功績を残されています。
いま思うと、私がマンガ研究に興味を持ったのは、
父に取材するインタビュアーとしてのみなもと先生を
間近で見たことがキッカケかもしれません。
「作品を読み解く視点って無限大にあるんだ!」
と驚いたこと、鮮明に覚えています。
また、私がみなもと先生に
最後にお会いしたのは2020年2月、
漫画家に向けて開講された
「出版契約書」の読み方講座でのことでした。
内容からして参加者の多くを若手漫画家が占める中で、
みなもと先生は後進漫画家を守るためには
どのような契約が理想であるのか、
積極的に質問をされていたお姿が目に焼き付いています。
そうそう、ほぼ日では、
みなもと先生と糸井重里さんが2004年に対談した
連載記事「歴史は、ひとことで語れない」を
ご覧いただけます。
「マンガが好きで、マンガがないと生きていけない。
それならマンガ家になるしかない」
と語っていたそうです。
一方で静香さんは
「そんな覚悟、わたしは出来そうにないな」
そう思い、
マンガ家を志望するのをおやめになったとのこと。
とはいえ、
みなもと先生のアシスタントをされていた過去があり、
ご自身も描き手であること、
先生を一番近くで長年支えられてきたこと、
そういった、みなもと先生の遺された作品、
ご功績に対する理解の深さゆえ、
静香さんは遺された生原稿や資料、
それらひとつひとつと丁寧に向き合いながら
おひとりで整理を進めていらっしゃいます。
書庫を見せていただいた際、
静香さんがご自身の体より幾分も大きな移動式の棚を、
えいやっと移動されているたくましいお姿が
とても印象に残っています。
みなもと先生はご生前、生原稿を全部スキャンして、
データ化したいお考えがあったようですが、
そうしたらデータと生原稿で、
「抱えるものが2倍になってしまう!」と、
どうしても及び腰になっていたとお聞きしました。
生涯、連載作家であったみなもと先生。
激務の日々を送り、ただでさえ時間がなく、
生原稿のデータ化や整理は、
誰かがやってくれないとはじまらない。
静香さんが原稿整理に着手しようとしても、
みなもと先生やアシスタントの方々がマンガを制作する
仕事部屋の内部に踏み込んでの作業となることから、
肝心の執筆の妨げとなってしまうことがネックに。
「結局手をつけることが出来ないまま、
あの人は亡くなってしまった」
そう静香さんはおっしゃいます。
連載作家の家族にとって、
同時に原稿整理を行うことは、
とても難しいことだと思います。
みなもと先生の生原稿を今後どのように遺していくか‥‥
静香さんいわく、現状は手立てやアイデアはなく、
いまはただ目の前の「山」を整理することで
手一杯とのこと。
「生きてるうちに出来るものなら、
やっておいた方が、やっぱりよかったとは思う。
マンガ原稿を収蔵できる施設が今後増えたら、
それは希望です」
と、取材の最後に言われていたことも、
心に残っています。
ちなみに、私がリイド社に入社し、
編集者としてのキャリアをスタートしたのは、
みなもと先生がお亡くなりになった後のことです。
私が所属する「トーチ」編集部の
編集長・中川敦さんが書いた
ブログ「追悼 みなもと太郎先生(担当編集者より)」、
ぜひ読んでみてください。
私は、自分の制作、マンガの編集、父のマネジメント、
手広く仕事をしている分、
いろいろな課題に直面する日々ですが、
「こんな時、みなもと先生だったら、
どのような言葉をかけてくださるだろうか‥‥」
たびたび心の中で、先生に問いかける自分がいます。