第5回 最悪の事態の想定。
糸井 | 落ち着いて話せるようになったいまだからこそ きちんと伝えたいなと思うのは、 「事実を事実として見ること」の必要性なんです。 それは、震災後の態度を通じて 結果的にわかったこととして収めるんじゃなくて、 これからも必要になってくるぞ、という意味で。 |
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早野 | はい。 |
糸井 | そういう姿勢でいるためには どうしたらいいんだろう、 というのが、今日、早野さんに 訊きたかったことのひとつだったんですけど、 お話をうかがっていてわかったのは、 そもそも学問的態度というのは そういうものです、ということでした。 |
早野 | そうですね。 |
糸井 | それを踏まえたうえで、 ぼくがあえてもうちょっと掘ってみたいのは、 その学問的な振る舞いの向こう側にいる、 個人としての早野さんが 当時、どのくらい揺らいでいたんだろう、 ということなんです。 たとえば‥‥そうですね、 ひとりの生身の人間として、 学者としての知識を動員してでも、 「最悪の事態」っていうのを当然考えますよね。 |
早野 | ええ。 |
糸井 | そのとき、早野さんが考える「最悪」は、 どのぐらいのものだったんでしょうか? |
早野 | 最悪として想定していたのは、 首都圏の退避、ないしは、 避難が必要なレベルの汚染になるっていうことです。 原発の格納容器が完全に破壊されて 中のものが全部むきだしになってしまって、 汚染の度合いも地域的な広がりも チェルノブイリ並みになってしまう。 そういうことが起こると 首都圏の汚染もかなりのレベルになるということは 3月の半ばくらいには、うちのチームで 最悪の事態として想定していました。 また、そのころ、政府から 意見を求められる機会もあったので、 最悪の事態として汚染が広がったときに、 政治家が腹をくくって「動くな」と言えるかどうか、 ということをかなり議論した記憶があります。 |
糸井 | 「動くな」というのは? |
早野 | 当時、多くの被災地がそうでしたが、 交通のインフラが機能してないんですよね。 つまり「逃げろ」と言われたとしても 逃げられない状況がある。 そのときに「いま動くな」って言えるのは 政治家しかいないわけです。 |
糸井 | ああーー。 |
早野 | 「とにかくいまは動くな」 「家の中にいてください」と 政治家が腹を括って言えるかどうか。 それができてこそ政治家だろうとか、 そういう話はしてました。 |
糸井 | つまりそれは、被害の元になるものが、 埃やら塵やらに、付加された放射線、 っていう想定ですよね。 だから、とにかく換気扇や窓を閉め切って、 どうなるかわからないけれど、 しばらくじっとしていてください、 という指示を出せるかっていうことですよね。 交通のインフラが整ってないなかで 大勢が一斉に動き出したら、 さらに大きな事故につながる恐れがあるから。 |
早野 | そうです。だから、とにかく、 しばらくそこにいてくださいと。 |
糸井 | それはもう、たいへんなステージですよね。 |
早野 | うん。でも、やっぱり、最悪のケースとして、 格納容器が壊れるようなことが起きたなら、 誰かが腹を括って言うしかないなと。 だから、格納容器が壊れることそのものも もちろん怖いことですが、 「しばらく動かないでください」 という事態になったときに、誰が言えるのか、 それで、みんながそれを聞くだろうかっていう、 そのあたりを想像すると、非常に怖かったですね。 |
糸井 | ああ、そうですねぇ。 なにも知らずに「動くな」っていう 伝達だけを受けたとしたら、 逆に被害が大きくなるように思えますものね。 |
早野 | はい。 |
糸井 | とくに、いろんな人が、 いろんなことを言ってるころですから、 いまおっしゃった説明をあのときにしたとしても、 おそらく、みんなが冷静に 受け止められたわけではないでしょうし。 |
早野 | そのとおりですね。 |
糸井 | 思い返すと、目をどこにやっていいか、 わからなかった時期なんですよね。 あらゆる問題を、専門家でもない一般の市民が 全部考えてないと落ち着かない、みたいな。 ぼくもそうでしたけど、 いろんな場所にアンテナを張ってないと 生きていけないような気がしてたんです。 それって、要するに、 弱い動物としてのストレスのかかり方ですよね。 その意味では、早野さんは専門家として、 不安で不安で仕方がないっていう 一般の人たちから、毎日のように 意見を求められたりしてたわけですけど、 それは、たいへんだったんじゃないかと。 |
早野 | うん、まぁ、たいへんっていうか‥‥ いろんな方からいろんなことを言われました。 たとえば一部の方からは、 とにかく「御用学者」と呼ばれまして(笑)。 |
糸井 | ああー(苦笑)。 |
早野 | あと、ホームの端は 歩かないほうがいいですよとか、 家族がどこにいるか あんまり言わないほうがいいですよとか、 そういう真剣なアドバイスを してくださる方も大勢いらっしゃいました。 だからまぁ、そういう意味では、 ちょっと殺伐とした時期でしたね。 |
糸井 | うーーん‥‥。 なにしろ、たくさんの人が、 さまざまな思いでいたわけですから。 |
早野 | いや、ほんと、そうなんです。 ツイッターを見ているだけでも、 その、やりとりの振幅っていうのかな、 ものすごく幅があるっていうことが わかりましたから。 |
糸井 | つまり、人の考えの振幅ですよね。 同じ人のなかでも時期によって 振幅があったわけですし。 |
早野 | ほんとうにそうですね。 人の興味の方向性というのも そのときどきで変わっていくんですよね。 そういうなかで、6月の11日に、 今日も来てらっしゃいますけど、 八谷和彦さんが ガイガーカウンターミーティングという 「放射線を正しく測ろう」という ワークショップを開催されるんです。 |
糸井 | あれが6月でしたか。 |
早野 | はい。6月11日。 そのイベントにはぼくも参加したんですけど、 首都圏でも、とにかく自分たちで測って 放射線量を把握したいっていう気持ちが みんなにあって、たいへん盛り上がりました。 そのあとはみんながそれぞれに線量を測定して データを共有するという動きになりました。 家のまわりを測ったり、 学校で測ったり、道路を測ったり。 また、飛行機が飛んで空中の線量を記録して 汚染マップをつくったり。 ぼくらの研究室の学生なんかも、 仲間といっしょに福島の土を測って、 メッシュ測定という、区画ごとの測定を行ったり。 |
糸井 | つまり、震災当初は事故そのものに目が向いて、 その後、健康への影響を知りたがって、 つぎに、自分のまわりの線量を知りたい、 というふうに変化していったわけですね。 |
早野 | そうですね。 そんななかで、ぼくが目を向けたのが、 「内部被曝」という問題だったんです。 |
糸井 | ああ、はい。 つまり、体内に放射性物質が取り込まれてしまって、 内側から細胞を傷つけていくこと。 |
早野 | そうです。 当時のことを簡単に言うと、 内部被曝ということについて、 みんなが心配しているのに データを誰も持ってないという状況でした。 それで、これはなんとかしなければいけないなと。 チェルノブイリの影響を知っている人たちは、 こぞって内部被曝の問題に対して警鐘を鳴らす。 それを聞いて、みんなどんどん不安になっていく。 だけども、データはない。 |
糸井 | はい。 |
早野 | 外の放射線量というのは、 ガイガーカウンターを持って正確に測れば、 だいたいの様子はわかるんですよ。 でも、お腹にガイガーカウンターを当てても、 身体の中の線量というのは、まずわからない。 でも、とくに子どもたちの内部被曝について、 心配している人はとっても多いわけなんです。 だから、これはなんとかしなければということで そうとう真剣に考えました。 それで、夏になるちょっと前くらいから、私は、 「給食を測ろう」っていうことを言い出すわけです。 |
糸井 | ああ、そんなに早くから、取り組んでらっしゃったんですね。 |
2013-06-21-FRI