もくじ

第1回 ひとつのモチーフは、死。

──
今回は「原作もの」ですが
監督には、ご自身でお話を書かれた作品が
たくさんありますよね。
是枝
ええ。
──
そこでひとつ、おうかがいしたいのですが、
人はなぜ、物語を書くのでしょうか?
是枝
物語を?
──
はい。言い換えると
「人はなぜ物語を必要とするか」というか。
是枝
ああ‥‥映画とか小説って
人間が生きていくには余分なものだって
よく言われたりするけどね。
写真
──
ええ、謙遜しているのか、
作り手の側が、そうおっしゃるケースも
あったりしますよね。
是枝
でも、そういう、一見、
生命活動には必要なさそうなものにこそ、
動物とはちがう、
人間が人間である証しがあるんじゃない?
──
なるほど。
是枝
歴史的に見るとさ、映画もそうだけど、
かつて「物語」というのは
「権力者のもの」だったわけですよね。
──
ええ、プロパガンダのためとか、
中国の王朝が
前王朝の文物を焼き払ったり‥‥とか。
是枝
つまり、自分たちの正統性を
市井の人たちに知らしめるためのものとして
物語が必要とされていたわけです。

「私たちは、なぜ今ここに君臨しているのか。
 その理由は‥‥」という、
自分たちの権力の根拠や正統性を知らしめる、
「大きな物語」が。
──
はい。
是枝
一方で、ぼくたち庶民も
映画だとか小説だとかマンガだとか、
それぞれに、
「ちいさな物語」を持ってる。
──
もっと昔は、民話だとか伝承だとか。
是枝
うん、それって本当にすばらしいことだと
思っていて、
つまり、なぜかって言うと、
権力者の「大きな物語」が幅を利かすような、
社会が、ナショナリズムみたいな
「大きな物語」に回収されてしまうような、
そういう可能性って常にあるけど‥‥。
──
ええ。
是枝
自分たちの社会が
「大きな物語」に回収されないためにも
ぼくら庶民が「ちいさな物語」を、
「ちいさいけれど、
 それぞれに、ゆたかな物語」を、
語り続ける必要があると思ってはいます。
写真
──
おお。
是枝
なんか、まじめに答えるとすれば(笑)。
──
いや、ぼくらにとっての大切なものって、
「ちいさな物語」にこそ、
込められているような気がしますものね。

今、すごく納得しました。
是枝
まあ、ぼく自身は、昔から
お話を書くことが好きだっただけで、
「物語とは何か?」って
そんなに強く
意識してたわけじゃないんだけど。
──
監督の2作めの映画に
『ワンダフルライフ』がありますが、
あの作品って、
カメラの前に座った一般の人が
「自分の人生でいちばん大切な思い出を語る」
というシーンが、続きますよね。
是枝
ええ。
──
伊勢谷友介さんとか、由利徹さんとか
たまに著名人も混じりますけど、
中心的な役割を担うのは無名の、一般の人。

そういう人たちが、ちいさな物語、
つまり
各自の「大切な思い出」を語るんですけど
それだけのことが、
どうしてあんなにおもしろいのか不思議で。
是枝
あれ、聞いているほうにとっては
じつに「どうでもいい内容」なんだけど‥‥。
──
幼いころ、童謡の「赤い靴」に合わせて
踊りを踊った話だとか。
是枝
その人にとっては「特別」なんです。
──
なるほど、そうですよね。
「いちばん大切な思い出」ですものね。
是枝
あれって、はじめは
脚本を書くためのリサーチのつもりで
撮ってたんですけど
途中から
どんどんおもしろくなってきたので
そのまま、映画にしちゃったんです。
──
え、そうだったんですか。
是枝
だから、みんながみんな、
「本当のこと」を話してるんですよね。

つくられたセリフじゃない、
それぞれが、本心から大切にしている
「思い出の話」だから
聞いてて、おもしろいんじゃないかな。
写真
──
監督は、早稲田大学を卒業したあと、
テレビマンユニオンに参加して
たくさんのドキュメンタリー番組を
手がけてきたわけですが‥‥。
是枝
ええ。そんなに多くはないですけど。
──
先日、佐々木昭一郎監督に
インタビューする機会をいただいたんです。
是枝
あ、本当?
──
はい、佐々木監督も
一般の人を主役に抜擢するスタイルで
他にはない雰囲気のドラマを
たくさん、つくってきたかたですから
「ドキュメンタリーとフィクションのちがい」
を、うかがってみたんです。
是枝
ええ。
──
そしたら、
もう、ほとんど脊髄反射みたいな素早さで
「ドキュメンタリーは事実を追求し、
 フィクションは真実を描く」
というふうに、おっしゃったんです。
是枝
なるほどね。
──
それまでぼくは
ドキュメンタリーが映しているものは、
「事実=真実」であると
深く考えもせず、そう思っていたので、
すごくびっくりしたんですが‥‥。
是枝
うん。
──
是枝監督は、どう思われますか?
是枝
まず、ぼくは、
あんまりジャンルでとらえてないんです。

撮る際の方法でしかないなと思っていて、
でも、そのうえで言うなら
「ドキュメンタリー」というものは、
「私とあなたの関係」
を描くものじゃないかなと思っています。
──
その場合の「私」というのは?
是枝
撮影する側。「あなた」が、撮られる側。
つまり、目線は「二人称」です。

他方で、フィクションは、
「一人称と三人称で描くもの」なんです。
撮影者は
登場人物の「私」の一人称の気持ちにも
入っていけるし、
神の目線で、三人称的にも世界を描ける。
写真
──
はい。
是枝
その「一」と「三」とを
組み合わせてつくるのがフィクションで、
「私から見たあなた」という関係から
常に離れないのが、
ドキュメンタリーだと思っています。
──
ようするに
ドキュメンタリーは「私の主観」であると。
是枝
だから「客観」というものがあるとすれば
それは、フィクションが担うものだと思う。
──
その点は「フィクションは、真実を描く」
とおっしゃった
佐々木監督のご意見にも、似てますね。
是枝
ただ、個人的には
「客観的な表現なんてあり得ない」とは
思っていますけど。
──
「主観の集合」を
「客観」って言ってるわけですものね。
是枝
言葉を変えて言えば
「相手の内面」と「神の目線」とを
捨てたところに
ドキュメンタリーは成立するということ。

ようするに
相手の気持ちをわかったふりを、しない。
写真
──
はい。
是枝
すなわち「私はあなたではない」のが
ドキュメンタリーで、
「私はあなたでもあるし、神でもある」
のが、フィクションなんです。
──
おもしろいです。
是枝
だから、そういう意味で言うと
フィクションのほうが「傲慢」なのかも。
その「傲慢さ」を引き受ける覚悟のある人が
フィクションの作り手になるんじゃないですか。
──
ドキュメンタリーではなく。
是枝
‥‥ややこしい話になりましたかね。
写真
──
いえ、すごくおもしろいです。

<つづきます>
2015-07-28-Tue