そして、今年2013年の7月。 ひさしぶりに「ほぼ日」の菅野は 気仙沼は唐桑の、一代さんの家を 訪れることになりました。
一代さんの夢見ていた宿泊施設は 「つなかん」と命名され みごとに完成していました。
もちろん、船に乗って 養殖いかだを見に行く体験ツアーも 順調に開催中。
「つなかん」を訪れた日の朝、 一代さんが出してくれたごはんです。
一代さん自慢の、 牡蠣のお吸いものつきでした。 とてもおいしかったです。
1階には、親しみあふれるお食事処もできていました。 これまでの話に出ていた 牡蠣や帆立を焼く野外コンロも、 もちろんそろっています。 そのほか、お好み焼き用の鉄板台やビールサーバー、 ビールのポスターまで、 一代さんは入手していました。 鉄板も家具もポスターも、そのほとんどが いろんな方のご厚意により ゆずってもらったものだそうです。
「こういうことがしたい、と公言すれば 聞きつけて、助けてくれる人がいます。 ありがたいことです。 いろんなものが、ここで私といっしょに 第二の人生を送っていけばいいと思う」
夢は口に出して言うのがいちばんと語る一代さんは、 いわゆる「有言実行タイプ」であるのですが、 どうやらそれだけではないようです。
「自分がやりたい、という動機だけでは、 不十分で、できないんです。 こうすれば助かったり喜んでくれる人がいる、 物でもなんでも、もういちど再利用できる道がある、 それが私の背中を押してくれるのです。 近所の人たちには、いつも 『ばば! (気仙沼では、驚いたときに 「ばば!」というのだそうです) 今度はいったい、なにやんの?』 と言われています。 でも、みんなほほえましく見守ってくれています」
旦那さんやお姑さんも、 「好きなようにやればいい」と 応援してくださるそうです。
「きっと、言ってもしょうがない、って あきらめてる(笑)。 走り出したらとまらないのがわかってるから。 体だけは壊さないように、 それだけ言ってくれています」
「旦那もばっちゃんも、やるならやるで、 手伝ってくれる。 中古のお好み焼きの鉄板台も、ばっちゃんが 磨きに磨いてくれたんだよ。 80歳の、80馬力で」
去年の「気仙沼さんま寄席」のバスガイドのときに 養殖体験ツアーを実施したいという 計画を聞いたときから1年ちょっとで、 この実現力です。 私はただただ驚いていました。
いま、一代さんは、 自宅の裏にある蔵をどうにか利用できないか (雰囲気があって、とてもいい蔵なのです)、 海の水をひいて滅菌し 肌にいい海水風呂ができないだろうか、 そんなアイデアが次々にあふれているそうです。
「お風呂を改装したり、トイレを増やしたり、 きちんとやっていきたい。 お客さまをむかえる場所になるんだから いつまでも、 『ここ被災地だから我慢してね、ごめんね』 って言ってちゃダメなんですよ」
一代さんのおうちに集まっていた 震災ボランティアのみなさんは、 滞在しているうちに宮城を離れがたくなり、 そのまま商工会議所に就職した人もいるそうです。 また、仙台にとどまって職を見つけ、 ときどき唐桑まで遊びに来てくれる方もいるとのこと。
「東京にそのまま帰っちゃうよりは、仙台あたりにいて ちょこちょこ唐桑に戻って来れるから、 うれしいって言ってくれます」
一代さんは、この翌日から 帆立の収穫と出荷作業に入ると言っていました。 夜の12時起床の日々が1ヶ月間続くことになります。
「震災後、やっとまとまった量の 帆立が出荷できるようになりました。 心待ちにしていたし、 早く船に乗って仕事がしたい。 50キロの帆立を盤上に積むんだけど、 この積み方が芸術的でとてもきれいなの。 ああ、みんなに見せたいなぁ。 うまく積めなかったり割れた帆立は 船の上で食べます。 コリコリピクピクして甘くておいしい。 感動ものです。 でも、1日に何十個も食べてれば、さすがに 4日目くらいからだんだんと 見るのも嫌になってきますけどもね(笑)。
海からあげたての魚介は 牡蠣でも帆立でもホヤでも、 あまくてくさみがない。 いやいや、ほんとに、食べてみろって言いたいです。 それだけで、ほんとにね、 ウワーッ、生きててよかった! という感じに なるんだよね」
この時期は、帆立の出荷をしながら、 体験民泊の活動も変わらず 続けていくそうです。
「ここに来てくれるみなさんの意見を聞いてて、 私も少しずつ答えが見えてきた感じです。 お客さんと一緒にいると、 どんなにこまかいことでも 反応が返ってくるからすごくたのしいです」
また、唐桑に遊びにきたいと思います。 次に会えるのは、また、 さんま寄席かな、と思いつつ。
では、また来ます、一代さん。
(終わりです。 お読みいただき、ありがとうございました)