やあ、いらっしゃい ― 中村好文さんと歩く、伊丹十三記念館

糸井重里が、松山の伊丹十三記念館を訪れました。設計のみならず、キュレーターとしても活躍した建築家の中村好文さんと、館長の玉置泰さんの案内で、じっくり、見て回ります。どうぞ、ごいっしょに。

第3回 「二:音楽愛好家」〜「四:俳優」

伊丹十三記念館見取り図

二:音楽愛好家

小中学校時代は
音楽にコンプレックスを持っていたという
伊丹さんですが、レコードを聞き込み、
楽器を演奏するようになってからは、
それを終生の友とするようになります。
ここには、愛用のヴァイオリンや、
すり切れるほど使い込まれたヴァイオリンの教則本、
レコードコレクションの一部などが展示されています。

中 村 伊丹さんは「音楽」が
すごくお好きだったんですよね。
玉 置 私も湯河原のお宅にレコードが
バーっと並んでるのを見たんですけど、
セレクトはどうやってやったんですか。
中 村 もう入る量は決まっちゃうんでね。
ぼくの好きなレコードを選んじゃいました(笑)。
それより、展示の中で
「どうやって見せたらいいか」で悩みました。
糸 井 この蓄音機で人を集めたんですもんね(笑)。

「二 音楽愛好家」の文字には蓄音機のイラストがそえられています。
玉 置 万作さんの形見ですね。
下宿で一人暮らしをしていた時代には
バッハやモーツァルトを聞きながら
本を読んでいたそうです。
それで友人たちのたまり場になったんですよね。
中 村 そう。そうらしいですね。
その光景が目に浮かぶようです(笑)。
糸 井 その話もおもしろいですよね。
魔法の小箱だ。



伊丹十三記念館見取り図

三:商業デザイナー

1954年、高校を卒業して上京した伊丹さんは、
商業デザイナーとなります。
最初は、雑誌の車内吊り広告や目次レイアウトをてがけ、
のちには書籍の装幀も仕事とし、
明朝体を書かせたら日本一、と呼ばれるまでになります。
自著のカバーデザインをはじめ、
監督になってからは台本のデザインにまで
こだわっていました。

中 村 伊丹さんは、きっと
デザイナーとしてやっていても
第一線で活躍してたでしょうね。
糸 井 古びないタイプのデザインですね。
中 村 そうそう。オーソドックスで、
奇をてらわないデザインですからね。
「伊丹明朝」といわれるレタリングを見れば、
そのことがよくわかります。
糸 井 ああー。
『お葬式』の字で佐村憲一くんを泣かせた(笑)。
中 村 そうそう、
大いに泣かせたらしい。
糸 井 泣かせたよ、そりゃね。
個性出てますね、やっぱりね、こう見ると。
中 村 そうですね。
この表紙の、この絵も
伊丹さんによるものですし。
糸 井 恐れ入りますなあ。
あ、『小説より奇なり』の表紙、
これは斬新だったんですよ。
僕らは、その出た時に見てるんだけど、
やっぱりある種の、こう、
胸騒ぎさせるものがありましたよね。


伊丹十三記念館見取り図

四:俳優

1960年、27歳で伊丹さんは俳優デビューします。
ここではデビュー当時の伊丹さんと
1982年、NHK大河ドラマ『峠の群像』で吉良上野介を
演じた時の写真をメインに、
ハリウッド映画出演時の写真や
プログラムを展示しています。

中 村 俳優時代の写真をたくさん使おうと
思ってたんですが、
すっごい高いんですよ、使用料が(笑)。
それもう全部レイアウトし終って
あとは写真を借りるだけってところで
交渉を始めたら高くて、結局、使えなかった。
それもね、毎年費用がかかるんですからね。
玉 置 そうなんですよ。
中 村 年間で、いくらいくらなの。
地代みたい(笑)
糸 井 そうですか!
中 村 これはたまらないっていうんで。
玉 置 予算内で展示できるものを
中村さんが苦心して集めてくれました。
糸 井 本人が使うのにね。
中 村 ねえ、まったく、
どうなってんだろう。
(つづきます)
2009-10-08-THU
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コラム ようおいでたなもし、松山
  伊丹十三記念館のスタッフが、
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図版:トリバタケハルノブ