水野
話は戻りますけど、カレーにおける「隠し味」って、
さっきのイトイさんの
スッポンスープみたいなのが究極ですけど、
やっぱり入れたらおいしくなるんですよ。
だけど、努力を買ってくることになる。
要するに「隠し味」というのは、
「手間を省くためのツール」なんですね。
糸井
そういうことだよね。
水野
だからもし「ちゃんと手間をかけるやり方」
「意気込み」「時間」などがあれば、
実際には隠し味はひとつも要らないはずなんです。
だけどこれを、
「今日は疲れたからいいや」とか省こうとすると、
隠し味が必要になる。
糸井
電動自転車みたいなものかな。
「隠し味とは電気なり」。
水野
そう。自分でペダルをこぐ気力があれば、
ほんとは「隠し味」は要らないんです。
糸井
ええ。
水野
それで、おどろいたんですけど、
本所吾妻橋に「レストラン吾妻」という
ぼくの好きな洋食屋さんがあるんです。
そこのカレーはおいしいんですが、
3代目の竹山さんというシェフは、
カレーを作るときにタマネギを炒めないんです。
糸井
そうなんだ。
水野
しかも彼は
「カレーでタマネギを炒めるなんて、
手抜きのコックのやることだ」
と言うんですよ。
そのことばを聞いて、ぼくは衝撃を受けて。
カレー界で、タマネギ炒めを
否定する人がいるんだと思って。
糸井
いままではいないよね。
水野
しかも「手抜きのコックがやる」なんて、
もう全員を敵に回したも同然(笑)。
糸井
大逆説ですよね。
水野
彼の言う根拠は何かというと、
「レストラン吾妻」のカレーは
カレー粉と小麦粉をオーブンに出し入れしながら、
4時間焼くんです。
だからさっきの糸井さんのタマネギ炒めの
話がありましたけど、
4時間カレー粉を焼く竹山さんからすると、
タマネギを4時間炒める糸井さんは、
手抜きなんです。
糸井
たしかに、何にも気にせず、
炒めてたけれども(笑)。
水野
ぼくはこれ、大変な事件が起きたと思って。
糸井
うん、大変だ。
水野
竹山さんの「オーブンで4時間焼く」と
「タマネギを炒めること」は、
目指していることが別なので、
厳密には違うんです。
だけど、竹山さんの感覚からすると、
「みんなめんどくさいんだろ?
4時間焼きたくないんだろ?
だからタマネギ炒めで代用してるんだろ?」
なんですよ。
それは、
「みんな、めんどうだから隠し味を使うんでしょ」
とかと一緒で、
タマネギ炒めすら「隠し味」的な飛び道具だと
考える人がいるというか。
糸井
それ、けっこう危険な世界に入ってますよね。
水野
そうなんですよ。
そして、ぼく自身はこれまで、
タマネギを4時間炒める意味を理解しながら、
それを15分でやれる方法を
模索したりしてたんです。
「4時間はナンセンスですよね」
とか言いながら。
糸井
「なぜだったんでしょうね」とか
問いかけたりして。
水野
同時に、タマネギを4時間炒めることで
男子と女子が結ばれるなら、
ぼくはそれを邪魔しちゃいけないという
意識も持ちつつ。
‥‥まあ「15分でできますよ」とも、
言いたいから言ってきたけども(笑)。
糸井
水野さんのスタンスはそうですよね。
水野
だけど、そうやって取り組んできた
タマネギ炒めに対して、
ぼくはいま、竹山さんから
ものすごいボールを投げられて、
疑問を抱きはじめているんです。
そして、最新の水野の思考は、
「カレーにタマネギ炒めは必要なのか?」
というところにきています。
‥‥タマネギ、炒める必要あるの?
糸井
「水野さん、さいきんそういうことを
考えてるらしいよ」
という噂が聞こえただけで、
ぼくはショックを受けました。
「いままで言ってたキャラメライズとか、
何だったの?」って(笑)。
水野
だけどそれはぼく自身にとっても、
過去の自分のアプローチを
否定しかかることになるので、
辛いと思いながら、悩みながら、です。
だけどいまはそれでも、
「‥‥もしかしたら、要らないのかも」
と思ってて。
糸井
流派を変えちゃう可能性が、
出てきたんだ。
水野
そうなんです。
これはぼくにとって、一大事で。
糸井
人って、流派に属していることに
喜びも感じてるからね。
「みんなで青い服着ようぜ」と言うときの
青い服みたいなものに、嬉しさがある。
水野
ありますね。
「あいつら黒って言ってるけど、
やっぱ俺たちは青だよね。
黒の人たちの思考、わかんないよね」
というのはたのしいんですよ。
そして、そうやってみんなが
たのしんでたところに、いま、
「そもそも洋服を着なくていいんじゃない?」
と言う人が出てきたと。
糸井
そういうことを言うのって、
料理が載ったテーブルクロスの端を
ぐいっと引っ張るみたいな喜びがあるよね。
水野
あります。ありますけどね‥‥。
だけどぼくもやっぱり
「青い服かな、赤い服かな」という遊びを
たのしんでいたりもするんです。
だから、もし自分がこれから
「洋服要らないかも」と言いはじめたら
どうしようかと思ってるところです。
糸井
だけど水野さんは常に、
「どれも否定しない」という姿勢を
キープしてるじゃないですか。
水野
そうなんです。
ぼくは基本的に「ぜんぶアリ」です。
糸井
だから、まずいカレーがあっても
「これをおいしいと思うのは誰だろう?」
みたいに、
主体を自分じゃないところに置いて考えるのが
癖のようになってますよね。
水野
そうですね。
たぶんぼくは、最終的には
信じてるカレーの流派がないんです。
お店の人たちはそれぞれ、
「このカレーがいちばん旨いんだ」があるけど、
ぼくはどのやりかたをして、
どんなカレーにたどりついてても、
「それはそれで、ぜんぶアリだな」
という感じがあるので。
糸井
うん。
水野
そして、流派の遊びは流派の遊びで、
まだ当分たのしみたいんです。
タマネギ炒めだと、
「絶対に焦がすな」という流派と、
「すごく極端に言うと焦がしてもいい」
という流派と、
大きく2派があると思うんですが、
そのどっちも追求して、たのしみたい。
糸井
そうなんでしょうね。
水野
そんなに詳しくないですけど、
落語家でも、まったく真逆と言われる
桂文楽さんという人と、
古今亭志ん生さんという人がいるじゃないですか、
糸井
「焦がす」志ん生ですね。
水野
そう、「焦がす」志ん生と、
極端に言うと
「焦がしたら捨てて、もう二度とカレーは作らない」
という文楽さんと。
糸井
文楽は「勉強し直してこい」ですから。
水野
タマネギ炒めについては、
ぼくはどちらかというと志ん生派です。
「焦がしたなら焦がしたなりの
おいしいカレーがあるよ」って感じだから。
だけど、どっちの流派も
「いいな、おもしろいな」と思うんです。
糸井
うん、両方おもしろいですよね。
水野
だけどこれから、
さらに別の流派が出るかもしれない。
いま考えている
「カレーにタマネギ炒めは要るんですか?」は
もう、第3の流派だな、という。
糸井
実際そういうカレーはありますよね。
水野
ありますね。
そしてその「レストラン吾妻」のカレーは
タマネギを炒めてないけれども、
おいしいんです。
糸井
カレーの数だけ「おいしい」があるんじゃなくて、
「おいしい」の数だけカレーがあるという。
水野
そういうことなんですよ。
(つづきます)
2016-05-03-TUE
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN