糸井
だけど、水野さんが
「自分には流派がない」と言うのは、
いつでも探し続けたいからじゃないですか?
流派を決めたら、カレー遊びが終わっちゃうから。
あとは評論家として
「このひとつのカレーを信じてるわたし」
になる。
でも水野さんは、ずっと旅をしたいわけでしょ?
水野
そうですね、旅をしたいですね。
自由にね。
「ハワイしかない!」みたいなところに
到達してしまうのは、
もったいない気持ちがあるんです。
糸井
ハワイを探す人だったはずなのに、
そこが見つかっちゃったら、もう。
水野
そうなんですよ。
糸井
その感じだとまわりの人は、
水野さんを「研究家」って呼びたくなりますよね。
水野
ああ、だから「研究家」なのか。
糸井
やっぱりそれが近いのかもしれない。
水野
ただ、ぼくは研究はするけど、
そこからの評論ができないんですよ。
グルメ評論家の人たちに大事な資質で、
ぼくにまったくない資質というものがあって、
それは「言い切る」ことなんです。
彼らはそれぞれ信じてるものがあって
「ここはうまい、ここはダメですね」
とか言い切れるんです。
そうすると説得力もあるし、おそらく求心力もつく。
だけどぼくは、何も言い切ることが
できないですから。
糸井
それは、ぼくの悩みでもありますよ。
ぼくも「言い切る」がないから。
水野
だけどそうすると、まわりから、
「糸井さんのスタンスは
とらえどころがなさすぎて、
ついていっていいのかよくわからない」
みたいになりませんか?
糸井
そう思う人はいるでしょうね。
人って、言い切らないと気持ちが悪いんです。
水野
そうなんですよ。
ぼく、それをすごく感じてて。
カレーの世界におけるぼくは、ほんとに
「すごく気持ちの悪いやつ」なんです。
一同
(笑)
糸井
断言しないし、ぜんぶのカレーについて
「おいしい」と言うわけだもんね。
「主語を変わればおいしい」を
認めちゃうわけだから、
それは、神の視点みたいになっちゃう。
水野
そうなんですよ。
で、神にもいろいろありますけど、
ぼくがたまに連絡をとってる
ラーメン界の石神秀幸君という人は‥‥
糸井
すごいコピーのついてる人だ。
水野
そう、彼には「神の舌を持つ男」という
キャッチコピーがついているんですね。
そして彼は、眉間に皺を寄せたりしながら
ラーメンを食べるわけです。
ぼくは仲がいいから
「『神の舌』なんて、ちょっとすごすぎでしょ」
とも思うけれども、
同時に、自分に「神の舌」があったら‥‥
なんてことも想像するわけです。
そして、もしぼくに
カレーについての「神の舌」があったら、
きっとぼくはカレー評論家として、
頭ひとつ突き抜けられると思ってて。
糸井
それはそうだよね、神なんだから。
水野
だけど、ぼくは「神の舌」は持ってないし、
自分は「神の舌」を持つ立場には
いたくないんです。
ぼくは、なにも断言したくないので。
糸井
‥‥わかった。
どうして水野さんの話がぼくにとって
すごくおもしろいかというと、自分だからだ。
自分もまったくそうだもん。
水野
そうですか。
糸井
ぼくも断言したくないんです。
断言すると「勝負」になって、
自分が「剣豪」みたいになっていく。
もっと強い人を恐れるようになるし、
自分より強い人に対して、
どんな手を使ってでも勝ちたくなる。
すると、最初に感じていた
「カレーっておもしろいな!」とか
「素敵だな」とか
「こんなにワクワクするものがあって良かったな」
みたいな感覚が、消えちゃうんですよね。
水野
勝ち負けがすべてになると、
たのしめなくなる。
糸井
そのとき目的は「勝つこと」で、
たのしくなくたっていいわけだから。
水野
そうなんですよね。
だけどその断言しないスタンスって、
なかなか理解されなかったりしませんか?
たとえば
「で、結局、何がしたいんですか?」
みたいに。
糸井
それは、いっぱい言われますよ。
「肩書きは何ですか?」からはじまって、
「何がしたいんですか?」
「あるいはこういうことですか?」とか。
その都度のらりくらりと
「うーん‥‥」とか言ってるわけですけど。
水野
すごくわかります。
ぼくがいちばん言われるのは
「カレー屋やらないんですか?」なんです。
でもぼくの返事は
「たぶんやらないかな‥‥」で。
そうすると、聞かれるのが
「評論家としてカレーミシュランを作るとか?」
みたいな。
ぼくはお店はたくさん紹介するけど、
採点やランキングはしないと決めてるから、
そういうのはやりません。
「なら商品開発ですか?」という
流れになったりもする。
だけど、何を聞かれてもぼくが
「うーん、そういうのは‥‥」って、
曖昧な返事をするわけです。
そうなると、だんだん相手が
「‥‥この人はカレーで何がしたいんだろう?」
となってきて。
糸井
聞く側からすると、それはそうだよね。
水野
たぶんカレーの世界では、
自分にとっての「究極のカレー」を見つけて、
それを出すカレー屋さんを開くのが、
みんながいちばん納得するゴールなんです。
だからたぶんぼくは、いろんな人から
「水野さん、いろいろやってるけど、
ゴールはカレー屋でしょ」
とか思われてる気がするんです。
糸井
それは違うよね。
水野
まったく違うんです。
糸井
水野さんが『カレーの教科書』を
出したのはいつですか?
水野
2年前ぐらい、2013年ですね。
糸井
ぼく、水野さんのソフトな真顔の究極は、
『カレーの教科書』だと思うんですよ。
あの本、初めて水野さんが
自分の本部を作った気がしてるんです。
水野
あれ、かなり踏み込んだ提案書なんですよね。
「その視点おもしろいね」レベルじゃなく、
「ぼくはここまで突き詰めました。
で、どうですか」という提案書なので。
たぶん、あの本の内容で喜んでくれる人は、
カレー界にけっこういると思うんですけど。
糸井
あの深さの内容、ふつうは知れないですからね。
水野さんがものすごくコストをかけて
突き詰めてきた、
いわば水野さんの歴史のようなものが
詰まっている本じゃないですか。
水野
そうなんですよね。
だから、出版社の人が本のPRをするときには、
「水野仁輔の集大成」って書くんですよ。
ぼくが嫌がったから、
本自体には書かれてないんですけど。
ただどの本でも「集大成」とか言われるのは、
ぼくはほんとに嫌なんです。
たしかに2014年の時点での集大成として、
全力で内容を詰め込んだけど、
既に2年後に、タマネギ炒めの必要性を
否定してるわけですから。
だから「集大成」ではぜんぜんない。
たぶんいつまでも「集大成」の本は、
ぼくにはない。
糸井
そういうことですよね。
水野
ぼくは自分のカレー活動で、
満を持して何かを出すことはないんです。
本を出すときは毎回、瞬間瞬間では
「最高のものができた」と思って出してるけど、
翌年になるといつも、
「なんて駄作を出したんだ」と思うから。
糸井
出したくなっちゃうんだね。
水野
そう、出したくなっちゃう。
数年前、糸井さんに
「ほんとに多作だね」と言われたじゃないですか。
ぼくはそういう理由で、多作なんですよ。
「満を持して出す」というものはないんです。
満を持して何かを出してしまうと、
自分で「ここが頂点です」と
決めちゃうような感じがするから、嫌なんです。
糸井
建物を建ててから生き方を決めるみたいに
なりがちですよね。
水野
そうなんです。
ぼくは旅人なので、建物は建てないんですね。
やっぱりあちこちに行きたいんで。
(つづきます)
2016-05-04-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN