第2回 ジャックのころ。

── 当時、新宿のスナック「ジャックと豆の木」では
山下さんが発見した「九州の伝説の男」として
話題だったんですよね、タモリさんは?
高平 うん、店のお客さんみんなで
新幹線代を出しあってさ、
タモリを「ジャックの豆の木」に呼んだという話だよ。
そのころ、僕はまだ参加していなかった。

赤塚(不二夫)さんなんか、
タモリの密室芸をほんとにおもしろがって、
すっかり気に入ったらしくてね。

赤塚さんが「どこに泊まるつもりだ」って聞いたら
タモリが「とくにありません」と。
「じゃあ、うちに来い」ってことで
居候にさせたらしいんだよ。

だから、上京していきなり
赤塚さんの高級マンションに住みはじめて、
気がつくと、ズボンとかジャンパーとかも
ぜんぶ、赤塚さんのを着てたんだよね。

── で、赤塚さんご自身は
下落合の仕事場で寝泊まりしてらっしゃったと(笑)。
高平 冬物の格好までは覚えてるから、
おそらく翌年の2月か3月ぐらいまでは
いたんじゃないかなぁ。
 

俺は目白のマンションに
一人で居候させてもらってたんだけども、
この人(赤塚不二夫さん)は他にもマンションを持ってる
大金持ちだと思ってたんだよね。
だけど、他のマンションなんかなくて、
帰るところがないから、事務所のロッカーを倒して
ベッド代わりにして寝てたんだよ。
そのことに気づいたときは
グッと込み上げるものがあったんだけど、
ここでグッときたら
居候道に反すると思って堪えましたね。

ーメディアファクトリー刊
赤塚不二夫『これでいいのだ。』p28
タモリさんの発言より
── 中洲産業大学の教授ネタも
「ジャックの豆の木」でうまれたんですか?
高平 中洲産業大学そのものは
まだなかったような気がするけど、
NHKアナウンサー風の「昼のいこい」ネタだとか、
モリタ教授の「陶器の変遷」、
「ジャズの変遷」みたいなネタは、初期からあったね。
 

男は、♪ターン タリラリラリラーンと
NHKラジオの長寿番組のテーマ曲を口ずさんだ。
そしてNHKアナウンサーの登場。
それはまさに『昼のいこい』だった。
農作物の取り入れが始まった農村の情報から始め、
安達太良山を望む農家の主婦からのお便りを読む。
収穫が終わった晩、
味噌汁の椀に手を伸ばしたそのとき、
姑の目に感謝の気持ちが光ったのを
私は見逃しませんでした。この家に嫁いで二十年‥‥」

ー晶文社刊
高平哲郎『ぼくたちの七〇年代』p139
── そのときはまだ、扮装とかもせずに。
高平 うん、日テレの『今夜は最高!』でやった
「中洲産業大学」くらいから
あのボサボサのカツラにしたんじゃなかったかな。
── いつも「ジャックの豆の木」には
どんな人たちが遊びに来てたんですか?
高平 ジャックは、もともと山下(洋輔)さんの
初代マネージャーの柏原卓さんが母親とやっていて、
その後、別れたカミさんに
任せてた店だったって聞いた、たしか。

だから、山下さんとか、
奥成達(詩人・ジャズ評論家)さん、
漫画家の長谷邦夫さん、
『同棲時代』作者の岡崎英生さんとか
上村一夫さん‥‥そんな連中が集まってきたんだよ。
── なるほど‥‥すごい面々ですね。
高平 店をたたむってときには、バス旅行に行ったりさ。
そのあと、なんとなく
四谷の飲み屋「ホワイト」に移ってったんだ。

新宿二丁目に「ひとみ寿司」って寿司屋があって、
そこには、赤塚さんとかタモリとか滝大作(演出家)、
それに所ジョージとか、小松政夫さんとか、
団しん也さんとか‥‥そういう人たちが集まってきて。

で、山下さんが「ホワイト」によくいるっていうんで、
だんだん、そっちへ流れていったんだよね。
── 高平さん、赤塚さん、タモリさん、滝大作さんで
「面白グループ」という集団をつくってましたよね。
本を出版されたり、
『下落合焼とりムービー』って映画の構想を練ったり‥‥。
高平 うん、そうそう。

赤塚さんが「名前は面白グループだ」って言い出して。
ひとみのころは、まだヒマだったんだろうね、みんな。

‥‥でも、そのころにはもう、タモリは
『うわさのチャンネル』のレギュラーになってた。
<続きます>
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2007-10-31-WED