第3回 全日本冷し中華愛好会。

── 70年代の『面白半分』という雑誌を見ると
タモリさんが人気者になっていくときのことを
とても印象的に書かれてますよね、高平さん。
高平 あ、そう? 忘れちゃったなぁ。
 

タモリがジャックから巣立ち、
人気者になっていく過程は、
その一端でも担うぼくは嬉しくてたまらなかった。
山下前会長(註:山下洋輔氏)も同様だった。
同時に、それが寂しくてたまらないという
ジャックの仲間の気持もわかった。(中略)
心の大きい山下前会長は、大きくなって
自分の手元から離れていく全冷中(後述)について
嬉しくてたまらなかったろうが、
心の狭いぼくは、タモリのケースを棚に置いて、
センチメンタルな感傷にひたってしまったのだ。

ー『面白半分』Vol.84・p124
高平哲郎「インサイド全冷中」第四回より
── でも、最初は「ジャックの豆の木」で
タモリさんのマネジメントをやってたとか‥‥。
高平 まぁ、それすらも飲みの席での遊びなんだよね。
A子ママがさ、
「OFFICE GOSUMIDA」って名刺までつくってさ。
── GOSUMIDA‥‥ゴスミダって、
タモリさんの「インチキ朝鮮語」ネタに出てくる
フレーズですよね、たしか?
高平 うん、いわゆる「ハナモゲラ語」のね。
── 山下洋輔さんのエッセイによると、
「オフィス・ゴスミダ」は
実際に2回くらい仕事をしている、と。
10チャンネルの
素人芸人合戦のような昼間の番組に
タモリさんが出演したときに、つきそいにいったとか‥‥。
高平 で、そのあと、原宿のセントラルアパートにあった
アイランズっていう
ぼくらの事務所に「移籍」したんだよ(笑)。

しばらくは、電話番なんかやってたなぁ。
── でも、そういうふうに考えると
「はじめてのJAZZ 2」ってイベントは
高平さんがいて、山下さんがいて、
タモリさんがいて‥‥。
「ジャックの豆の木」や「ホワイト」の時代から
つながってるというか‥‥。
高平 うーん‥‥俺からすると、タモリ、山下さんときたら
「ジャックの豆の木」っていうよりむしろ、
「全冷中」っていうさ‥‥。
── あ、「全日本冷し中華愛好会」のことですね。
山下洋輔さんが初代会長、
筒井康隆さんが二代目会長を引き継いだという。
 

その時何故急に冷し中華がほしくなったのか
説明するのは難しい。
とにかく、無駄と知りつつも私はそれを注文し、
まだやってないという当然の返事を受け取った。(中略)
「ナゼだ!」と私は叫んでいた。
「何故やっていなのだ。何故冬にはやらないのだ。
どうして冬に食ってはいかんのだ。
これはまったくいわれのない差別ではないか」
強い怒りが込み上げてきた。
「よし。戦おう。もうこれ以上我慢できない。
 冷し中華の長かった忍従と屈辱の歴史は
 本日を持って終わる。
 全日本冷し中華愛好会が今結成されたのだ」

ー晶文社刊
山下洋輔『へらさけ犯科帳』p178
高平 そっちのほうが、俺にはピンとくるんだよね。
もっとも、「全冷中」ってのも
ジャックのメンバーで、できてたわけだけど。
── 高平さんの本によると、
「第一回冷し中華祭り」なんてイベントも
開催されているみたいですね。
高平 そうそう、1977年の4月だったかな。
有楽町の「読売ホール」でやったんだよ。
── イベントの告知広告を見ると
「開会宣言」に筒井康隆さん、
「講演」に中洲産業大学の「タモリ一義」さん、
「演奏」に山下洋輔トリオ、
「ゲストスピーチ」には
高信太郎さん、黒鉄ヒロシさん、長谷邦夫さん、
「ジャックの豆の木」のA子ママ、
ジャズ評論家の平岡正明さん、奥成達さん、高平さん‥‥。
で、「抽選会」では「ソバヤ大合唱」。
高平 まぁ、ばかばかしいよね(笑)。
この日にあわせて『空飛ぶ冷し中華』って本も出してさ。

でもさ、あのイベントも、その本も‥‥
もちろん、それだけじゃなくて
1970年代後半に起きたいろんなことが
「ジャックと豆の木」で、うまれたんだ。

‥‥「タモリ」も含めてね。
<続きます>
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2007-11-02-FRI