
- 私と母は、
どちらも戦争終結前に生まれたけれども
その記憶がない、という意味で
共通しているのだと気が付きました。
母にとっては第二次世界大戦、
私にとってはベトナム戦争。 - 母は、戦中の記憶は何もない、と言います。
でも、山の上から見えている火事のような映像は、
前後の脈絡なく記憶にあるそうで、
空襲から母親に背負われて山に逃げたと
聞かされているので、
記憶があるとすればそれが唯一らしいです。 - 私もベトナム戦争で揺れていた社会に
生きていた記憶は何もなく、
かといって歴史の授業で習うほど昔でもなく、
枯葉剤の被害をニュースで聞いたり
本で知ったりする程度で大人になりました。
私は、
「おうちの人やおじいちゃんおばあちゃんから、
戦中・戦後の話を聞いてきましょう」
という宿題がまだ可能であった世代です。 - 私が米国に留学することになったとき、
「おばあちゃんは今でもアメリカが嫌いだよ」
と祖母(母の母)がポツンと言ったことが
忘れられません。
やがて私は米国人と結婚し、
アメリカ人側から見る戦争の記憶に触れる機会が
出てきました。 - 戦後すぐ占領下の日本に、二度、
行ったことがある人に会ったことがあります。 - 一度目日本に行ったときは、
子どもたちに近づくとわーっと逃げられたけれど、
二度目に行ったときには、
チョコレートくださいとわーっと寄ってきて、
反応がぜんぜん違った、と言っていました。
ああ、ギブミーチョコレートの話は本当だったんだと、
とても印象に残りました。
あるときは、
「ぼくの誕生日は真珠湾攻撃の日」という友人に、
「じゃ、12月8日生まれだね」と言うと
「違うよ、12月7日だよ」と言われ、
日付変更線をまたぐので
日米で記憶されている日付が違うことに気が付きました。 - 夫の叔父の一人で、
国家機密を扱うような部署にいる国家公務員で、
とても頭脳明晰な方がいました。
大学時代はぜんぜん勉強しなかった、というので驚くと、
ベトナム戦争真っ只中に学生時代を過ごして、
どうせ卒業すれば死ぬことになるのと思うと
将来に何の展望も見出せず勉強する気にならなかった、
と言っていました。
国民に付与されている番号に基づいて
抽選で徴兵される人が決まったそうですが、
叔父さんが徴兵されることなく戦争は終わったそうです。
その番号はぼくのラッキーナンバーなので、
その後の人生でも
ここぞというときには使ってきた、と語っていました。 - また、ベトナム戦争の懲兵について
別の角度から語られるのを聞いたことがあります。
ある人物がどんなにろくでもない奴かという文脈の中で、
使われていました。
ベトナム戦争のはじめのころ、その人物のお父さんが、
息子が徴兵されないように四方八方手を尽くした。
ところが、その息子は、
軍人がヒーロー扱いされているのを見て羨ましく思い、
お父さんの努力を無にして志願してしまった、と。
(無事に帰ってきたそうです) - 私は今、
日本の植民地だったことがある国に住んでいます。
かなり前のことになりますが、
日本語が多少できるという理由で
アシスタントをしている(その当時でも年配の)
インド系の方と話をしたことがあります。
世間話のように
「どこで日本語を覚えたんですか」と尋ねると
「収容所で」と返ってきました。
お母様はとても色白で、お顔の彫りの深さと相まって、
日本軍からイギリス人と決めつけられ、
その方はお母様と一緒に
収容所に入れられたのだそうです。 - お便り募集の言葉につられ、
記憶が手繰り寄せられるままに
書き連ねてしまいました。まだまだ出てきそうですが、
ここで筆を置きます(キーボードを打つのを止めます)。 - 整わぬ文章を失礼しました。
- (蛙が池)
2025-08-14-THU

