
- 最近、長くかかりつけで見ていたご婦人が亡くなりました。
賑やかで元気な、町内の人気者でした。
この方が、亡くなる1年ほど前、急に神妙な顔をして
「聞いておいて欲しい話がある」
と話し出されたのが、岡山空襲で被災された話でした。
近所の人と手に手をとって、
無我夢中で郊外へ、山へと逃げたら、そこは広い墓地。
市街中心の、爆撃標的地点からはかなり遠いのですが、
そんな場所にも、ひゅうううう、と
音を立てて焼夷弾が落ちてきたそうです。
音を頼りに墓石の間を逃げ回り、
なんとか朝を迎えることができたと言いますが、
「私の目の前でね、
焼夷弾の直撃を受けて亡くなった女性がいたの、
その人は、耳の聞こえない人だったの」
口にするのも辛い、そんな表情でした。
「つらい記憶だけど、もうあの戦争から80年でしょ。
私も歳をとった、いつまで生きてるかわからない。
戦争を知る者がいなくなって、
戦争がなかったことにされて、
次の戦争が始まるなんてことになったら大変。
だから、あなたに伝えておくわ。
あなたもお子さん方に伝えてちょうだい」
わたしの目を真っ直ぐ見て、
仰ったことを昨日のように覚えています。 - わたしの祖母も、
夫の留守中必死で守っていた施設
(病院、幼稚園、保育園)を
すべて空襲で焼かれました。
娘も1人、失いました。
祖母は死ぬまで、花火大会が嫌いでした。
無邪気な孫のわたしが「行こうよ」と誘うと、
柔らかく微笑んで「おばあちゃんは花火がこわいの」
と言ったものでした。
その真意がわかったのは、
それから何年も経ってからです。
祖母の悲しみ苦しみに、
寄り添えなかったことを今も悲しく恥じています。 - 祖父は死ぬまで
「終戦ではない、敗戦だ」と言っていました。
煮えるような苦しみ、焼け付くような悲しみ、
耐えるしかない不条理、
そういうものすべてをさらりとなかったかのように
「終わった」と表現する「終戦」という言葉を
最後まで憎んでいました。
愚かな戦いに挑み、たくさんの犠牲を払い、
負けるべくして負けた戦いを
2度と繰り返してはならない。
牧師だった祖父が常に愛した讃美歌にはこうあります。 - 「こころの緒琴(おごと)に み歌のかよえば、
しらべに合せて いざほめ歌わん。
(おりかえし)
あぁ 平和よ、 くしき平和よ、
み神のたまえる くしき平和よ。」 - 平和は当たり前にあるものではなく、
平和を願う人たちの想いと
神様の恩寵によるものである。
平和を感謝して歌おう。
そんな意味だとわたしは理解しています。 - 平和の歌がこれからも流れる世の中であるように
願ってやみません。 - (タナボタばんざい)
2025-08-15-FRI

