糸井重里は「ほぼ日」をはじめてから、
コピーの手法や技術についての話を
積極的に伝えようとはしてきませんでした。
でもやっぱり、一時代を築き上げた
広告コピーの話はじっくり聞いてみたい!
そんな機会をずっとうかがっていたら、
「前橋BOOK FES」の新聞広告で
糸井さんがひさしぶりにコピーを書くことに。
ほぼ日の編集者であるぼく(平野)は、
コピーライター出身なので興味津々です。
新聞広告を振り返りながら教わりました。
糸井さん、あのコピーってどう書いたんですか?
- 糸井
- 地方のことに触れていると、
地元にいる人たちから遊離したことをしようとして、
煙たがられるっていう例も目にしてきました。
それが何かと言ったら、
気仙沼とおつきあいしてわかったことなんです。
- ――
- ほぼ日と気仙沼とは
東日本大震災からのご縁ですよね。
- 糸井
- あの震災が起きた後で
気仙沼のお手伝いが何かできないか考えて、
最初に考えついた頃の案は、
もっと御説(おせつ)じみていたんです。
- ――
- 現場が見えていなかったのでしょうか。
- 糸井
- 地元で被災した人からしたら、
遠くの人にあれこれ指示されたことって、
聞こえたとしても届かないんです。
平野は2011年にはまだ
「ほぼ日」にいなかったよね?
- ――
- はい、まだ入社前です。
- 糸井
- ぼくらも、あの年の夏に初めて
気仙沼のみんなと話し合うことができて、
つくづくわかったことがありました。
地元の人がやってほしいことを、ぼくらはやる。
「こんないいこと考えたんだよ!」
みたいに見えたらダメだと思って
「御用聞きをやります」という言い方をしました。
いろんな取材をしていくうちに、
それまで考えていた企画は跡形もなくなったの。
たとえば、ガレキとやっと残ったお店と道みたいな、
まだ片付け中みたいな道路に看板をつける、
っていう企画を考えていました。
- ――
- そんなアイデアがあったんですか。
- 糸井
- たのしいデザインにして、
「なんとか通り」って名前をつけていってさ。
だって、目印が全部変わっちゃったんだから。
それなら外から来るお客さんでもわかるし、
愛嬌で「いいね」って言ってくれるんですよ。
でも、よく考えてみると、
それができるっていうことは、
復興していないってことなんですよ。
- ――
- そうか、被災後で時間が止まっちゃう。
- 糸井
- 「景色が変わったから、通りに名前を付けよう」
というのは今の景色を
固定しちゃうことになるんですよ、逆にね。
気仙沼に漁船が乗り上げて、
陸に大きい船があった景色は覚えてる?
- ――
- はい、写真で覚えています。
- 糸井
- あれも震災の遺構として残すべきだっていう
意見があったんだけど、
地元に住んでいる人からすると、
あの船を見ているだけで憂鬱になります。
- ――
- 思い出しちゃいますよね。
- 糸井
- 「あの船を片付けるところから、
新しい方に向かえるんだ」っていうことを、
ぼくらも言ってもらえる人になれたんです。
しかもあれ、気仙沼の船ならまだしも、
福島の船が乗り上げていたものなんですよ。
船の色で海の人ならみんなわかるのに、
あえて遺そうとしていた人たちは、
やっぱり外の人だったんですよね。
- ――
- ああ、そうだったんですね。
- 糸井
- じぶんの中にもその浅はかな面はあったから、
せつない気持ちでわかったんです。
そうこうしているうちに秋になった頃、
気仙沼の人たちと話していたら、
こんなことを言われました。
「正月がもうすぐ来ちゃう。
正月が来たらみんな忘れちゃうけれど、
それはしょうがないよね」って。
- ――
- うーん、たしかに年が変わると
区切りのタイミングではありますもんね。
- 糸井
- 「忘れないよ」とは言ったんだけど、
ほんとうのほんとうには自信はないよね。
お見舞いで励ましている人みたいなもので、
嘘をついているわけじゃないんだけど、
それって口だけだよなあと思って考えたんです。
「そのまま残るよ」っていうことを
表現する方法として、
気仙沼にぼくらの会社の支社をつくりました。
- ――
- それが、気仙沼のほぼ日ですね。
- 糸井
- さっそく不動産屋さんと2年契約をしました。
借りた建物を改築して、そこに従業員がいて、
外から仕事や観光に来た人にも、
「ここに気仙沼のほぼ日がありますよ」って言えたら、
2年間はぼくらが気仙沼にいるって
ちゃんと約束ができるじゃないですか。
地元の人たちからすっごく喜ばれて、
「本当にいいこと考えたね。ありがとうね」
と言ってくれたんですよね。
そこから本当に友達になれたんじゃないかな。
- ――
- 支社というかたちで場所があれば、
東京から行きやすくなりますもんね。
- 糸井
- そこでは、がれきを片付けながら
事務所をつくっていくやり方じゃなくて、
みんなが来てくれたときに
あったかい場所をつくるようにしました。
苦労を共にするから友達になるというよりも、
「ここで休んで」っていう場所にしたくて。
- ――
- 最初は2年間という約束ではじまった関係が、
そこから7年間、気仙沼にいたんですもんね。
もちろん、いまでもおつきあいは続いていますし。
そこで過ごした経験が、
前橋BOOK FESにも活きていたんでしょうか。
- 糸井
- ぼくらが気仙沼で経験していたおかげで、
前橋BOOK FESのスタッフの間でも
温度の違いを感じることができましたね。
「東京から新しいものがポンときたよ」という
お手伝いもあるんだろうけれど、
それ以上にぼくらがやろうとしたことって、
もっと地元の人たちがスッと参加できて、
大きくもできて、どうやってたのしくやれるかなって、
参加する人間も増やしていきたかったんです。 - 「増殖していくお祭りにするためには、
よそ者がいる方が思いきったことできるよね」
ということじゃなくて、
「よそ者と地元の人がいっしょにやらないと
できっこないよ」っていうことを伝えたかった。 - もし失敗しても、悔やみません。
というか、最初に「失敗の海に飛びこもう」
なんて言っちゃったおかげで、失敗もできるし。
あとは開催の当日に出した広告の
「たのしくすごしましょう」っていうメッセージを
出すことがこの企画の一番最初の柱だったんです。
たぶん床柱はこれなんですよ。
- ――
- これが、イベント初日の朝に出たものですね。
10月29日に出たこのメッセージが
企画のいちばん核になる部分だったと。
- 糸井
- このコピーを考えている途中で、
いっしょにイベントをやっていた
JINSの田中仁さんにも送っていたんですよ。
「近づくにつれてゆるくしました」って言ったら、
田中さんは驚いてましたね。
彼はJINSでも広告を出しているような人だから、
「ゆるくしていくってすごいですね」って。
- ――
- JINSの新商品や新店舗のお知らせだとしたら、
ふつうはどんどん具体的にしていきますもんね。
- 糸井
- そう、商品のいいところが
どんどん見つかるのがふつうですからね。
でも、このイベントの場合は、
逆にゆるくしていかないとダメだと思ったんです。
今回は社内にデザイナーもいるし、
イラストの材料もそろっていたから
かなり短い期間でつくっていましたね。
(つづきます)
2023-02-22-WED