2026年4月、群馬県赤城山に誕生した
「ほぼの駅 AKAGI」の正式オープンを記念して、
公開トークイベントをおこないました。
メンバーは、ストラテジストとして
多くの組織に携わる一方、近年は、
自然と人が共存するもうひとつの未来を目指す
「風の谷」構想を進めながら、各地の疎空間を訪ね、
さまざまな相談にも応じている安宅和人さん、
土の研究者の藤井一至さん、そして糸井重里。
夕暮れどきの美しい自然をバックに3人が話したのは、
「説明できない」「わからない」を前提にした、
理屈の外にある世界の豊かさのこと。
デジタルとアナログの境界線、AIとの関わり、
チームの作り方、カメムシや土の話まで、
のびのびとした話のなかに、物事をおもしろがる
ヒントが詰まった、刺激的な時間になりました。

>安宅和人さんプロフィール

安宅和人(あたか・かずと)

慶應義塾大学環境情報学部教授
LINEヤフー株式会社シニアストラテジスト
一般社団法人 残すに値する未来 代表理事

マッキンゼーにて11年間、多岐にわたる分野で
商品・事業開発やブランド再生に携わった後、
2008年にヤフーへ。
2012年から10年間、
CSO(Chief Strategy Officer)を務め、
2022年よりZホールディングス(現LINEヤフー)
シニアストラテジストを兼務。
2016年より慶應義塾SFCで教え、2018年より現職。
データサイエンティスト協会 設立理事・スキル定義委員長。
経済産業省「新産業構造ビジョン」、
内閣府/CSTI「AI産業化ロードマップ」「大学ファンド構想」、
デジタル防災未来構想、
数理・データサイエンス・AI教育モデル
カリキュラムおよびプログラム認定制度、
知的財産戦略ビジョンの策定など、科学技術および
データ・AIをめぐる多様な政策形成に関わる。

都市集中しかないかのように見える未来に対し、
知恵と技術を活かし、自然と人が共存する
もうひとつの未来の創造を目指して、
2017年に構想づくりを始動。
以降、専門家・地域実践者とともに
課題の構造的な見極めの上、構想を深め、
実装に向けた検討、取り組みを重ねている。

東京大学大学院 理学系研究科 生物化学専攻修士課程修了。
イェール大学 脳神経科学 Ph.D.。
著書に『イシューからはじめよ』(英治出版)、
『シン・ニホン』(NewsPicksパブリッシング)など。
最新刊は『「風の谷」という希望』(英治出版)。

X
ブログ

>藤井一至さんプロフィール

藤井一至(ふじい・かずみち)

土の研究者。
1981年富山県生まれ。

福島国際研究教育機構 土壌ホメオスタシス
研究ユニットリーダー。
京都大学農学研究科博士課程修了。博士(農学)。
京都大学研究員、日本学術振興会特別研究員、
国立研究開発法人森林研究・整備機構
森林総合研究所主任研究員を経て、現職。

インドネシアの熱帯雨林から
カナダ極北の永久凍土まで
スコップ片手に飛び回り、土の成り立ちや
持続的な利用方法を研究している。
第一回日本生態学会奨励賞(鈴木賞)、
第三十三回日本土壌肥料学会奨励賞、
第十五回日本農学進歩賞受賞、
第三十九回とやま賞、
第二十七回日本生態学会宮地賞、
第九回World OMOSIROI Award受賞。
著書に『大地の五億年
─土とせめぎあう生きものたち』(山と渓谷社)、
『土 地球最後のナゾ─100億人を養う土を求めて』
(光文社、第七回河合隼雄学芸賞受賞)、
『土と生命の46億年史』
(講談社、第四十一回講談社科学出版賞受賞)など。
「ホンマでっか!?TV」、
「1億人の大質問!? 笑ってコラえて!」、
「クレイジージャーニー」
などの出演歴がある。

ホームページ
note
X
Instagram

前へ目次ページへ次へ

3 「わからない」って答えもアリなんだ。

糸井
いま、SNSとかを見ていると
「なんでも説明すればわかるはずだ」と
考えてる人ばかりの気がするんですよ。
安宅
そうですね。
「世界のかなりをわかるものが占めている」と
信じてるのが、現代人だと思います。
糸井
で、「考察」が流行ってて。
だけど考察って、実際の経験とかが別に無くても、
データを集めて、コンピュータがあればできるんです。
でもいくら考察したところで、
「あの子にモテたいな」という気持ちが
成就するかというと、違うじゃないですか。
藤井
まったくです。
糸井
いくら理で追い詰めても、
相手に届かなければ意味がないし、
届いても「きらーい」とか言われたらおしまいで。
「嫌い」って、すごいんですよ。
そこに主体がはっきりあるんです。
「好き」は忖度しますけど、
「嫌い」は忖度しないんですよ。

安宅
たしかに「嫌い」ってすごいですね。
糸井
いま、そのあたりの
「理屈でできること・できないこと」の
境界がどこにあるかみたいなことに、
ぼくはすごく興味があるんですよね。
藤井
ああ。
糸井
とはいえいまはやっぱりみんなのなかに
「だいたい言葉で説明できるはず」
という考え方は強いし、
今日受けた「ほぼの駅 AKAGI」についての取材も、
そういう発想の質問が多かったんです。
「作った目的は?」
「どうなりたいんですか?」
「地域の開発と一緒に何を実現したいですか?」
とかって。
で、いままでぼくはそういう質問って、
「うまく答えられないな‥‥」とか思いながらも、
なんとかごまかしつつ答えてきたんです。
でもこのごろはもう「わからないです」とか、
はっきり言うようになってて。
たぶん最近の自分が、本当にそういうことに
こだわっているんですよ。
安宅
素敵です。
糸井
だけど取材にきてくれる人たちの前提はやっぱり
「わかる言葉にしなきゃ伝わらないですよね?」
なんです。
だからぼくもいろんな例を出したりしながら、
その「わからない」を、
なんとか理解してもらう感じになってて。
たとえばオープンしたばかりのこの場所について、
「将来どんな施設にしていく計画ですか?」
という質問があったら、
「生まれたばかりの子どもが
『オギャーッ』って言ってるときに、
『医者にするにはどうしたら?』とか、
ちょっと気が早い気がしますよね」
と伝えたりとか。
安宅
気持ちとしてはそうですよね。
糸井
でも、そこで恐いジャーナリストだったら
「いや、どう育つかわからないものに、
私たちは期待なんてできませんよ」
とか言うかもしれない。
また、ぼくらのいまの社会って、みんなが心の奥で
「わからないこと言わないでください」とか
思ってるようなところがあるし。
だからそういうとき、普通は
「医者にしたい」「学者にしたい」とかの
イメージに合わせて、
「1年生になったらピアノを習わせて」
みたいな仮の答えを言ったりするわけですけど。
だけどいまはもう、そういうやりとりに
疲れきってる人、それなりにいると思うんですよ。

安宅
わかります(笑)。
糸井
そのとき「この人は別だから」みたいに
考えてもらえたりしたら嬉しいけど、
それはそれでまた、
「変な人のジャンルに入れられて、
まともに話を聞いてもらえなくなるかな」
みたいな不安もあるし‥‥。
安宅
ぼくも「風の谷」についての取材を受けるときに、
よく似た問題にぶつかってますね。
もともと「風の谷をつくる」という考えは、
2017年の秋に鎌倉の建長寺に
100人くらい集まったワークショップで、
座禅みたいなことをしていたときに、
突然ぼくの頭に降りてきたものなんです。
そのときぼくが
「このまま行くと都市しかない未来になる。
それは嫌だ! とても耐えられない」と思ったと。
そのときなぜか「風の谷」という言葉が
一緒にやってきたので、
「あちこちに自然と歴史が豊かで、
生き延びられる疎な空間、すなわち『風の谷』を
つくる余地があるんじゃないだろうか」
みたいにはじまったわけです。
だけどそれについて、ぼくに
「どうしてそこで降りてきたんですか?」と
質問してくる人が、いっぱいいるんですよ。
糸井
ああー。
安宅
そんなのぼくにも
「わかりません。建長寺で座禅してみてください」
くらいしか言えないんです(笑)。
「生まれて初めて行った場所ですし、
すごい仏像を見たからですかね‥‥」とか。
でも「それだと記事にならないですよ」となる。
糸井
そう、納得できる理屈を求められるんです。
そのあたりのもどかしい気持ちみたいなことって、
藤井さんにもあったりしますか?
藤井
そうですね。ぼくもすごい人に会うと
「どうすればこんな考えに至るのか知りたい」
とか思うので、みんなに再現性ある答えを
つい聞きたくなる気持ちも、一応わかるんです。
そして自分も、研究費をほしいがために、
あたかも最初から完璧なロードマップが
できているかのように、
数字入りの資料を作りもしますし。
でも、結局それは仮でしかないから、
厳しい質問が来たら
「あなたは1回目のデートのときに、
結婚までの流れを聞かれて
全部完璧なロードマップを作れますか? 
それと同じです」みたいにごまかしたりして(笑)。
まあこれ、ぼくが言うと、
ただのごまかしにしか聞こえませんけど、
安宅さんが言うとそれらしく聞こえる気もして。
糸井
そこも問題なんですよね。
あちこちで客観的なやりとりが
求められているかのようでありながら、
実際にはそこでの理屈って
「誰が言うか」で正解が変わったりする。
藤井
あとは、そういう場面だと
「わからない」という答えってダメじゃないですか。
ですけど、私としては実際、
「考えるつもりすらないのとは違う
『わからない』もあるんだ」と思うんです。
そのときまだ見えてない選択肢のなかに
答えがあるかもしれないし、
「わからない」のなかに
いくらでも可能性があったりして。
糸井
そうなんですよね。
藤井
考えを放棄した「わからない」だと
無責任に思われちゃうかもですけど、
そうじゃない「わからない」もある。
さらに言うと、考えを放棄するのだって、
それはそれで、状況や分野によってはアリだと思うんです。

糸井
たとえばぼくと1歳半の子が遊んでたとして、
そのときは、ぼくが一方的にアクションを起こして、
赤ちゃんは自分からは何も作らないわけです。
それは、言葉だけ見ると、
ぼくが一方的に話しかけてるだけかもしれない。
だけど、その子ものちに
「あのとき遊んだ」は覚えてるとか、
ぼくのほうも
「この子からすごく影響を受けたな」があって、
そこにコミュニケーションはあるんですね。
犬とかとの関係でもそうですね。
そのとき、同じ言語体系を持たない存在同士で
交わしてるのって、
「説明」じゃなくて「イメージ」なんですよ。
安宅
「言語化すると陳腐化する問題」ってありますよね。
糸井
ありますね。言葉にならない部分にも、
実際には豊かなものがすごくあって。
そのあたりについて、さっき安宅さんは、
「デジタルデータの外側にあるまるごと」
という言い方をした。
藤井さんも「両方あるけど実はこっち側」
みたいに言った。
ぼくはやっぱり、そういった
「説明できない・わからない」部分も
考えるときの前提に含めながら、いろんなことを
のびのびと考えられるようでありたくて。
そういうことって芸術家の人たちがやってるんです。
横尾忠則さんとしゃべってると、ずーっとそれですから。
会うたびに、後光を浴びたみたいになるんです。
安宅
わぁ、そうですか。
糸井
たとえば横尾さんは、
右手が腱鞘炎で使えなくなったときとかには、
絵を左手で描いてたりするわけですね。
で、治ってきたら右に戻してとか。
ぼくらはそこに上手下手があると思うから
「左手だと無理じゃないですか?」
とか説明的に考えちゃう。
でも、横尾さんは上手下手を考えずに描いてるから、
それはもういいとか悪いとかじゃなくて、
「左しかないからこっちで描くんだ」
という答えなんですね。
「なるようにしかなんないからね」とか言いながら。
理屈みたいなことから、ものすごく自由なんです。
安宅
ああ、さすがですね。

(つづきます)

2026-07-31-FRI

前へ目次ページへ次へ