■■■去年の初夏に決まっていたこと。 |
ほぼ日 |
今回松野さんにお目にかかるにあたり、
ファイナルファンタジータクティクス
アドバンスの作品広報資料をいただいたんですが
それは昨年の初夏ごろに作られたもの
なんだそうですね。 |
松野 |
はい。 |
ほぼ日 |
これは、チームを統率する上での
何かお考えがあって、
最初にこういうことをきっちり作られて
いるんでしょうか。 |
松野 |
スクウェアもいろんなチームがあるので、
必ずしもスクウェア流ってわけでも
ないんですよ。でも自分のチームだと
タイトルとキャラクターとか
最初の導入部の使い方とか
そういうのは最初に決めますよね。
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ほぼ日 |
制作期間のほんとに最初に
決めるんですか? |
松野 |
そうですね。
企画書っていうのが基本的にまずありまして、
これがペラ(企画書の用紙)
2枚だったり10枚だったり
量は違いますけれど。
今回は3枚くらいのA4の紙がありました。
ゲームのベースになってる部分は
97年のファイナルファンタジー
タクティクスっていうゲームです。
その、言わば続編、なんだけど、
ゲームボーイアドバンスに合わせた
新作タイトルを作ろう、ということが
一番最初にありました。
あとは何を付け足して
何を省いてっていうところですが
このゲームの中心となるテーマが何で、
遊ばせたいところの骨組みは
こうなんだってことは大体書いたんですね。
それが最初の企画書です。
タイトルももちろん社内では
春くらいまでは「(仮)」で出てましたけど、
2(ツー)ではなくて、
かといって移植ではないので、
分かりやすくアドバンスっていう
タイトルを付けましょうってところは
わりと早めに確定しました。 |
ほぼ日 |
なるほど。
その企画書があって、
スタッフの意思統一ができるわけですね。 |
松野 |
ゲーム作りって、
人数が多くなればなるほど、
言葉では何となく理解できるんだけれども、
例えばインドって言った時の
インドのイメージって、
受け取る人によって多種多様ですよね。
でもこれが僕が言ってるインドなんだ、
っていうビジュアルを見せてあげるのが、
すごく重要なんですよね。 |
ほぼ日 |
ええ。 |
松野 |
スクウェアの場合ってわりといつも
大人数で作るので、
そういう意味で先にまず
ビジュアルをボンと作って
「あ、松野さんの言ってるインドって
こういうインドなんですね。
じゃあこういう物が合いますね」
と、意思を統一することが大事だと
思っているんです。
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ほぼ日 |
そのスタッフというのは
97年のファイナルファンタジータクティクスを
作っていたメンバーとほとんど同じなんですか? |
松野 |
あ、いえ。全然違います。
今回作っているメンバーというのは、
‥‥これちょっとディープな
話になっちゃうんですけども(笑)。 |
ほぼ日 |
いいですよ(笑)。 |
松野 |
僕がスクウェアに入る前に
クエストという会社がありました。
そこに、僕が抜けた後に入ったスタッフが、
「タクティクスオウガ外伝」っていう、
GBAのシミュレーションRPGを作りました。
その彼らがいろんな事情で
ゲーム事業をたたむことになって。
そこで縁あって
クエストからすべてのタイトルと
スタッフをスクウェアの方に移動したんですね。
その彼らと一緒に作りましょう、
というのが今回の
ファイナルファンタジータクティクス
アドバンス(FFT-A)というゲームだったんです。
ですけども、FFT-Aを作るために
彼らと一緒になったわけでは
決してないんですよ。
クエストとスクウェアの合併と
スクウェアと任天堂さんの雪どけが
たまたま同じタイミングで来たんです。 |
ほぼ日 |
ほお。 |
松野 |
もともと僕はGBAといいますか、
携帯ゲーム機には非常に興味があったので、
じゃあまあそれらをすべて
一緒にして一気にやっちゃいましょうと。
そういう意味でFFT-Aのスタッフは
すでにGBAで1本作ってましたんで、
ノウハウがありました。 |
ほぼ日 |
「技術」があったんですね。 |
松野 |
ありました。
ちょうど良かったんですね、
そういう意味では。 |
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■■■なぜ任天堂と組んだのか? |
ほぼ日 |
任天堂さんと組むきっかけっていうのは
何だったんですか? |
松野 |
確かにいろんな事情で任天堂さんと、
世間一般で言えば仲違いしてるような
感じがありましたけど、
開発側としてはハードメーカーさんと
特に何が、ここは嫌だからとか
そんなことがあったわけじゃ、
決してないんですよ。
僕らはやっぱり、どんなハードでも
ゲームソフトを作りたいと思ってますし。
先日宮本茂さんとも
ちょっとお話しさせていただいた時に
思ったんですけど、任天堂さんは
「いろんな遊びを提供する」会社ですよね。
ソフトっていう単体の意味ではなくて、
それをひっくるめた「遊びの文化」を
提供するっていう意味の
パイオニアだと思うんですよ。 |
ほぼ日 |
ええ。 |
松野 |
そういう意味では我々クリエイターにとっては、
任天堂さんというのは
ベースになっていると思うんです。
‥‥僕の子供の頃はこういうゲームって
なかったですよ。 |
ほぼ日 |
松野さんっておいくつですか? |
松野 |
私は1965年生まれで、今年38になります。
ですから、小学校の時に
インベーダーゲームがあって、
これが不良が集まるところだったんですね。 |
ほぼ日 |
そうでしたね(笑)。 |
松野 |
僕が高校の時にゼビウスが出て来て、
やっと第一のゲームブームが来た。
「ドンキーコング」とかもあった。
そしてファミコンが出て来たのが83年でしたね。
そういうものを遊んで来たっていう意味で
一番最初に僕が触れてる電子ゲームは
任天堂さんのゲームなんですよ。
ですから、いろんな諸般の事情があって
任天堂さんとご一緒できなかったっていう
時期が何年間かありましたけども、
物づくりとしてはいつかもう一回
やりたかったっていう気持ちは強かったですね。
もちろん経営側の判断もありましたけど、
開発側の方から何とかそこを
もう一回ご一緒するように
経営側としても努力してくださいっていう
お願いはずっとしてました。 |
ほぼ日 |
なるほど、分かりました。
話はちょっと戻るんですが、
最初にスタッフたちに
「こういうゲームを作るんだぜ」っていう
一番の骨組みの部分は、
松野さんが一人で考えられるんですよね? |
松野 |
そうですね。
ファイナルファンタジータクティクスという
前作のゲームはわりと人気がありまして、
「続編を作ってください」っていう
お願いをたくさんいただいてたんですね。
ただ、ぼくはまんま続編を作るって
いうことはあんまりしたくない人間でした。
ずっとそれを拒んでいた部分もあったんですよ。
やるんだったらやっぱり携帯ゲーム機で
やりたいと思っていたんです。
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ほぼ日 |
ええ。 |
松野 |
ベースになった僕の企画書っていうのは、
前作が出来た後すぐに書いているんです。
97年くらいですかね、
「いつかはこういうゲームを作りたい」
っていうのが、ずっと僕の中であった。
それをつくるチャンスが来たのが、
今回なんですよ。
しまっていた続編用の企画書を
引っ張り出して来たんですが、
5年も前の企画書でしたから、
当然アレンジをし直して、
GBAだったらこうしたいっていうのを
もう一回付け足して一気に書き上げて、
それをスタッフに
「こういうのでどう?」
っていう感じでお願いしました。
それはスケルトン(骨組みだけ)なんで、
細かいところ(肉付け)は
勝手にやっていいよって感じで
お願いしました。 |