糸井 |
ゲームという遊びについていうと、
もともとのところの魅力って、やっぱり、
インタラクティブなところだと思うんですよ。
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宮本 |
はい。
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糸井 |
でも、なんというか、最近、
みんながそこを言わなくなったような気がして。
つまり、受動的にたのしむことも、
自分が能動的にはたらきかけることも、
区別なくみんな語ってますよね。
でもね、参加できるものとか、
自分が働きかけておもしろくなるものっていうのは、
これはやっぱり、すごいことで。
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宮本 |
そうですね。
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糸井 |
やれって言われたらちっともおもしろくないことを、
自分からやるときのおもしろさというか、
たとえば、走ることでも、編み物でも、料理でも、
「やりたい」っていうときの、
そのおもしろがる力ってすごいじゃないですか。
で、その気持ちを満たしてくれる
優秀な材料というものがやっぱり必要なわけで。
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岩田 |
はい。
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糸井 |
受動的なメディアだと、
それを満たしてくれないんですよね。
でもいまは、おうちでのたのしみっていうと、
自分が動かなくてもいいです
っていうものばっかりになっちゃってるんで、
その、ゲームはあんたがやんなきゃおもしろくないよ、
っていう、ちょっと仕事をさせるってところが、
それこそがおもしろかったんじゃないかっていうのを、
いまごろ思い出すんですよね。
なんかね、めんどくさいことありませんっていうのを
みんなが言いすぎて、なにもしなくてすてきです
みたいなことばっかりになっちゃったんで、
ゲームは「やることがおもしろい」っていうのがさ、
もっと伝わりたいんだよね。
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宮本 |
あるゲームをたくさんの人が遊ぶと、やっぱり、
「勝手に動いてくれるほうがうれしい」
っていう人が増えてくるんですよ。
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糸井 |
そういうふうになりますよね。
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宮本 |
最近はそうですね。
それはほんとのインタラクティブのおもしろさが
ちゃんと見せられてへんからなんかな
とも思うんですけどね。
うーん、どうなんでしょうね。
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糸井 |
だから、そこのところで、
じゃあもう、なにもしなくてもいいように、
っていう方向だけじゃなくて、
人が一所懸命になってできることっていうのを、
ぼくは尊敬したいし、自分がそうしたときに
自分への敬意が持てるようにしたいと思うと、
やっぱり、任天堂がつくるものには期待したいんです。
世の中は簡単になってるけども、
安易にそうするだけじゃなく、
かといって意地を張るばかりじゃなく、
ちょうどいいところを、
この人たちはほんとにうまくやるんだよね、
っていうところを、がんばってほしいというか。
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宮本 |
がんばります(笑)。
あの、『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』という
コントローラーを剣のように振って遊ぶゲームをつくって
ぼくはすごく自分で満足していて、あれを遊んだら、
これまでのボタンだけで遊ぶ『ゼルダ』は
ちょっと物足りなくなるんじゃないか
とまで思ってたんですけど、
やっぱり、テレビの前でコントローラーをずっと構えて
遊び続けるのがしんどいという人もいるんですね。
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岩田 |
ボタンで遊びたい、という人が。
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宮本 |
そう。寝転んで、遊びたいって。
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糸井 |
まぁね(笑)。
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宮本 |
で、そんなことして、
このおもしろさがわかるか、と思う反面、
いや別にボタンで遊びたい人には
遊んでもらってもいいじゃないかと。
そこまでムキにならなくても。
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岩田 |
(笑)
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宮本 |
ボタン押すのもめんどくさい、
って言われたら困りますけど。
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糸井 |
でも、言う人は言うんですよ、きっと。
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宮本 |
そうですね(笑)。
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糸井 |
「めんどくさい」の時代ですよね。
もちろん、自分も含めてね。
でも、それが強くなりすぎると、
つくり手にとってばかりじゃなく、
受け手にとっても困るんですよ。
消費者の「めんどくさい」に
製作者が応え続けるだけの循環はよくないって、
自分が製作者側に回ったときに気づくんですよ。
自分が、つくり手になったときに。
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岩田 |
ああ、なるほど。
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糸井 |
だから、なんていうか、
「めんどくさい」っていうことばの持っている
いいところ、悪いところ、その両方を、
遊びを考え続けてる任天堂がきちんと受け止めて
ああ、やっぱり任天堂は違うわ、って、
ぼくらは言いたいんだよねぇ。
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岩田 |
私は思うんですけど、
インタラクティブな娯楽の強さって、
遊んでから、10年とか15年経って
思い出すことだと思うんですよ。
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糸井 |
はい、はい。
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岩田 |
小説とか映画も、たしかに感動するんですけど、
感動したということは憶えていても、
あらすじさえ言えなかったりしますよね。
ところが、自分がやったものは、
ものすごく強く残っている。
あの感じって独特な気がするんですよ。
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糸井 |
すごいですよ。
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岩田 |
刺さり方が違うんですよね。
典型的なところでいうと、
糸井さんのところにいまだに届くという
『MOTHER』の感想。
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糸井 |
毎日のように来ますよ(笑)。
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岩田 |
そういうものってほかにないですよね。
たぶん、『MOTHER』の本を読んでも、
『MOTHER』の映画を見ても、
ああいう刺さり方はしないと思うんです。
やっぱり、自分で選んで、
自分で進めた『MOTHER』だからこそ。
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糸井 |
うん。
ゲームだから、そうなるんですよね。
それは、物語性のあるものだけじゃなく、
『マリオ』とかでもそうですよ。
どうしてもクリアーできないっていう経験さえ、
いろんな人と共有できたり。
それが、インタラクティブなものの強さで。
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岩田 |
そうですね。
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糸井 |
だとすると、いかにしてそこに
引き込んでいくのかということに
なるんだと思うんですけど、
たとえば宮本さんは、
どうやってそこを乗り越えていくんですか。
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宮本 |
うーん、そうですね、
すっごい雑にいうと、いまは、
すべて世の中「共感」やっていうのが、
ぼくの結論みたいなもので。
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糸井 |
ああ、「共感」。
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宮本 |
そう、共感。
つくり手に共感することもあれば、
シチュエーションに共感することもあって、
いろんな共感があると思うんですけど、
それがあるからこそ、入っていけるんですよね。
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糸井 |
うん、うん。
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宮本 |
ゲームに代表されるインタラクティブなものって、
自分で参加して働きかけていくわけですから、
その対象と、自分に距離を感じてしまうと、
バカバカしくてやってられないですよね。
逆に、その距離が近いほど、参加しやすくて、
自分に刺さるものが多い。
同じものに接していても、
引き込まれている人にはそれがすごく響いて、
逆に、引いてる人は、他人事のように思える。
それはやっぱり「共感」が得られているかどうかで。
自分が人のものを評価しているときと、
いまいちピンときてないときの差って、
けっきょくぜんぶ、それ違うかなと思うんです。
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糸井 |
ああー。
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宮本 |
そうすると、共感してくれそうな人と
なかなか共感してくれない人と、当然いるわけで、
共感してくれない人にまで共感してもらうものを
どこまで追い求めてつくるべきか、迷うんですよね。
ただ、共感をしてもらうようにつくるには
やっぱり、自分がよく考えるとか、
自分が実際に感じてることを通して
ものをつくらないとダメですよね。
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糸井 |
そうです。
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岩田 |
その意味では、
自分がなにかにハマっていくときに、
なぜハマったかがちゃんとわかると、
そのプロセスを、別の機会に
共感を呼ぶ手法として活かすことができますよね。
だから、なにかが流行った理由を、
説明できたときの宮本さんの
うれしそうな顔っていったらないですから。
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宮本 |
(笑)
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糸井 |
なるほどね(笑)。
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宮本 |
違う例でいうと、最近のハリウッドの映画とか見てると、
その多くは、つくり手の実感ではなくて、
流行ったものを寄せ集めて詰め込んでるので、
まったく共感できないわけですよ(笑)。
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糸井 |
ああーー。
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宮本 |
すっごいCGでたくさんのものが
ぶわーっと動いてるのを見ても、
ぜんぜん心が動かなくて。
昔、ランボーが木の上からバーッと飛んだときには、
「あれスタントやろか? 本人か?」って、
すっごいドキドキしたんですよ。
それはやっぱり、落ちていくときに
枝が刺さるんやないか、目に入ったらたいへんや、
みたいなことまでぜんぶイメージできるからで。
でも、CGのロボットがどんどん突っ込んでいく、
みたいなものを見ても、
まぁ、見たことのない風景として驚きはするものの、
なにが起こっているのかということに
引き込まれていかないんですね。
そのとき、なにが起こっているのかというのを
理書きできることが共感の原点なのに。
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糸井 |
つまり、記号にしかすぎないから。
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宮本 |
そうなんです。
見せようとしてないんですよね。
で、そういうものが人気だとしても、
よくよく聞いてみると、
人が思い入れを感じているのは
そういうコストのかかった部分じゃなくて
登場人物の気持ちの描写とか、
自分の内面と通じるところに
シンプルな共感を感じているだけだったりして。 |
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糸井 |
そうですね。逆にいうと、
宮本さんの作品が世界中で受け入れられているのは、
ことばをつかわずに、動きや反応で共感を生んで
遊び手の心を動かしているからでしょうね。
それは、やっぱり、すごいことだと思う。
(つづきます) |