その8 写していないものが写っているということ。

 
Nikon D3 + 105mmf2.5

アフリカ・ケニアにて
子供たちの集まりの写真を撮っていると、
ひとりの女の子の視線に気が付きました。
そして彼女は、にこっと小さく笑った後も、
そのきれいな大きな瞳でぼくをずっと見つめていました。
その瞳が、とてもキラキラ光っているようで
魅力的な子だなあと思いながら撮影した1枚です。
帰国後、プリントしてみると、
本当にその瞳がキラキラと光っていて、
ちょっと忘れられない一枚になりました。

 
  ぼくはいまもフイルム、デジタル、
両方のカメラを使って写真を撮っています。
どちらにせよ、ほとんどの完成形は「プリント」。
プリントが写真だと思っているところがあります。
そしてプリントになった時に、
今でも「オォーッ」と声が出ることがあったりと、
その独特の存在感みたいなものは、
どうにも液晶モニターだけでは感じ取ることができません。
そんな、時に思わず声を出してしまうような写真、
そして、言葉で表すことが出来ない
“なにか”が写っている写真、
それがぼくにとっての「いい写真」なのかもしれません。

オカルトの話ではありませんが、
「目に見えないもの」が写っている写真のことを、
だれもが「いい写真」だと感じているように思います。
たとえば、一番わかりやすいのは、記念写真。
家族でもいいし、友達同士でもいいし、
そこに人が写っていようが、写っていなかろうが、
「記念」に撮る写真です。たとえば、
「彼氏とか彼女とかと、奥さんとか子どもと、
どこかに行きました」という写真。
美人にとか、かわいく、とか、そういう話ではなく、
「この時、楽しかったんだよなぁ」
っていうことを思い出すことができるならば、
それは「いい写真」だと思います。
逆に「これ、俺、カッコよく写ってるから、
この写真、好きなんだよね」っていう写真は、
「いい写真」のグループには入ってきませんよね。

想い出だとか、記憶だとか、思い入れみたいなこと。
実際、そこには写っていないようなものが写っているのが、
やっぱり、いい写真だと思うんです。
プリントというのは、そんないろいろが
その中に、しっかりと
しみ込んでいるようなところがあって、
そしてそれを実感することが出来る特別なもの。
どうやら、プリントというものは、
ぼくたちが「なにかを思い出す」ということに、
すごく適しているものなのだと思うのです。

このたびの震災で、がれきの中から写真を探し、
アルバム洗浄をする手伝いをしましたが、
CD-ROMを探すひとは、ぼくの知る限りいませんでした。
ひとは、やっぱり「アルバム」を探す。
それはきっと、そこの中に想い出が
いっぱい入っているんですよね。

今の子たちは、携帯の中に入っている画像を、
携帯ごと残しておいて、ここに想い出が入ってる、
みたいな話をするけれども、
それは、いつの日か、必ず、見れなくなっちゃう。
「消えちゃってもいい」ということまで含めて
言っているのかもしれないけれど、
プリントしてアルバムに入れて、
残しておくことが出来たら、
そんな大切な想い出は、どんどん大切なものになって、
そして、そういうよろこびは、たぶん、なくならないし、
なくなってほしくないですよね。
もちろん、その「写り」なんてどうでもよくて、
一番大切なことは、もっと別のところにあるのですが、
そんな大切なものを、
もっともっと大切なものにするために、
「いい写真」が「大切な写真」になるために、
「きちんと撮って、きちんとプリントをする」
そのために「いいカメラ」と「いいレンズ」が
必要な場合があるのです。

もうこれはとても単純な話で、
iPhoneをはじめとした、スマホのカメラも、
どんどん写りもよくなっているし、
写真でコミュニケーションする楽しみも、
ならではの世界がたくさん出来上がっています。
それでも「カメラという写真を撮るための道具」で、
しっかりと被写体と向かい合って撮った写真の方が、
なぜだか、それはまるでべつものとして、
写真ならではの、独特の印象がそこには写ります。
それに、それをきちんと残して行くとなれば、
プリントする時には、いいカメラで撮っておいたほうが、
やはり、プリントになった時の
「もの」としての重みであるとか、
深みのようなものが、変わってくるように思うのです。
しかも、同じカメラでも
コンパクトデジタルカメラで撮ってプリントしたものと、
デジタル一眼で撮ってプリントしたものとでは、
プリントしたものは、あきらかに違うんです。
そして、そこには当然のことながら、
「いいレンズ」もそこに役立ちます。

 
Nikon D3 + 35mmf1.4
バングラディシュにて

その村の名前は「シュンドル・ゴナ」といいます。
意味を訪ねると「美しい村」とのこと。
その村の中で写真を撮っていると、
「なに撮っているの?」というかんじで、
どんどんひとが集まってきました。
だったら、記念写真を撮ろうと集まってもらいました。
もしかしたら、隠れてしまったひともいたかなあと
思っていたのですが、さいわいみんな写っていました。
その後、この写真をプリントして、
現地に届けてもらったのですが、
その写真が、今でもあの村にあるのかと思うと、
それだけで、ちょっとうれしい気持ちに
なったりするものですね。

 
  これはあくまでもひとつの例にすぎませんが、
富士フイルムに「ナチュラ NATURA」という
フイルムのコンパクトカメラがありました。
しかもこのカメラは「ナチュラ NATURA 1600」
という同名の高感度フイルムといっしょに使うと
暗いところでもフラッシュなしで撮影できるという、
ひじょうにすぐれたカメラです。
先日、これをお子さんのいる友人に貸したところ、
「今まで以上に、家族の写真を
 いっぱい撮るようになりました」というのです。
そして、現像所でCDーROMに焼いてもらい、
家のプリンタで出力していますと。
その写真を、奥さんや子供がどんどん切り抜いて、
スクラップブックに貼り、
夏の思い出帖をつくっているのだそうです。
それって、すごく素敵なことだと思うんです。
けれども当のお父さんは、せっかくの写真なのにと
ちょっとだけ嘆いているので、
だったら、次は、これぞという写真を、
ちょっといい紙を使ってプリントしてみたら、
と薦めているところです。

じつは、インクジェットプリンタは、
こと写真に関しては、紙がとても重要です。
このテーマについてはいずれくわしく
お伝えしようと思っていますが、
たとえばハーネミューレというドイツ製の高級紙を使うと、
それだけで、いきなり深みのある
プリントが出来上がります。

とにかく「写真」と「プリント」というのは、
とても不思議な関係で、
もちろんもともとは同じものではあるのですが、
それがひと度一枚の「プリント」となって、
そこに新たな時間がふき込まれることによって、
その「写真」は(変な言い方になってしまいますが)
また別の「写真」になっていく、
とでも言ったらいいのでしょうか。
それはまるで新たな命が育んで行くように
時間の経過と共に、あきらかに別の意味を持ちます。
そしてこのことは、もしかしたら写真の楽しみの
もっとも大きな魅力の
ひとつなのではないかと思っています。

「写真を撮る」ということは、
「ものを見る」ということでもありますし、
同時に「時を刻む」ことでもあります。
ですので、そこに流れる時間が、
それはたとえ「一瞬」という短い時間であったとしても、
その時間が、一枚の写真の中において、
長ければ長いと感じることが出来るほど、
もしかしたらその写真の中には、
大切なものが「写っている」
ということなのかもしれませんね。
そしてきっとそれこそが「いい写真」の証なのでは、
と思ったりします。
そんな写真を、より大切なものとして残しておくために、
まずは一度、だまされたと思って、
お気に入りの一枚を、
しっかりとプリントしてみてください。
すると、きっとその写真は
今まで以上に、もっと大切な写真になるはずですよ。

2013-10-24-THU
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