メイド・イン・ジャパンの挑戦。 シグマ・山木社長を会津工場に訪ねる編
菅原 シグマという会社は、
どんなふうにして今に至ったのか、
教えていただいてもいいですか。
山木 はい。シグマは1961年に
世田谷区で創業した会社です。
創業者の山木道広は、私の父になります。
もともと父は、家が貧しく、
学生時代から光学機器メーカーで働いていました。
当時、双眼鏡のプリズムアライメントっていうのは、
特殊な技術で、あんまり知っている方が
いなかったらしいんです。
それを、ある方から教えていただき、
なかば専門家のようになりながら、
働いて、大学を卒業した後は、
小さな光学メーカーに入って、
同じような仕事を続けました。
その小さない光学メーカーには、
いわゆるオーナー社長がいたんですけど、
あまり会社に来ない方で、
父ともう1人の方が事実上の経営者として
切り盛りをするようになっていたそうです。
そんなある時、オーナー社長が
愛人と、お金持って、
駆け落ちしちゃったらしいんですね。
菅原 えっ!(笑)
山木 とにかく、サプライヤーさんが
路頭に迷わないよう
支払いをしなければならないなかで、
父は仕事を続けながら
残務整理を進めていました。
どうにか会社を整理する段取りが
出来上がったところで
今度はサプライヤーさんから
「仕事を続けて欲しい」
と要請されて作った会社が
現在のシグマということなんですね。
そういう意味でシグマは
「起業精神」から生まれたというよりは
協業のみなさんから請われて会社にした、
のが始まりなんです。

その頃、レンズメーカーというのは、
日本に、ものすごくいっぱいあったらしいです。
社名もAからZまで、
アルファベットで全部揃うくらい、
50社以上あったというふうに言われています。
タムロンさん(TAMRON)は、当社よりも、
10年ちょっと、先輩の会社ですし、
他にも、もっと先輩の会社があった中で、
シグマは最後発の会社なんです。
そして、創業当時のヒット商品は、
リアコンバーターでした。
リアアコンバーターって、父の発明というか、
当社が初めて作ったものです。
── レンズに装着して、
元のレンズの焦点距離よりも
広角や望遠で使えるようにする、
べんりなものですよね。
山木 はい。当時は各レンズ専用の
フロントのコンバーターしかなかったんですね。
でもそれを後ろ側に付ければ、
ユニバーサルに使えるじゃないか
ということで開発して、
これがヒットしました。
菅原 知らなかったです。
ここ会津に工場を構えたのは
どんないきさつですか?
山木 ここ(会津工場)は1974年に始まったんですけれども、
世田谷で創業した後に、社屋を狛江に移したんですね。
会社の上に我が家がありまして、
下に、一応、旋盤工場等とかもありまして、
そこで私は生まれ育ちました。
高度経済成長の名残がある時期だったので、
いわゆる「金の卵」のブームの
ちょっと後くらいなんですけど、
リクルーティングで、父が、
日本のいろんな土地の中学や高校を訪ね、
採用をしていたんです。
たまたまその時に会津出身の方が社内にいて、
その方の紹介で会津を訪れた際に、
「息子さんを就職させてもらえないか」
みたいな話をしたんですけれど、
このときはあまりうまくいかなかったようです。

でも、その夜に、
こちらの地主の方と飲み会をやってですね、
「最近は、もう農業も近代化してきて、
 専業農家の時代でもない」と。
「ここに工場があれば、長男はどうせ地元に残るし、
 農業をしながら兼業で働けるのに」
という話をした流れで、酔った勢いもあって
「じゃあ、私が、ここで工場を作りましょう」
と言ったらしいんですよ。
菅原 おぉ(笑)!
山木 それは社交辞令だったのかもしれませんが、
1週間か2週間後に電話が掛かってきて、
「あの件、どうなりました?」と。
「ある地主の方が土地を持っていて、
 納屋が空いているので、
 そこで始めたらどうか」という話になって。
そこで会津で1人を採用して、
旋盤を持ちこんで始めたのが会津工場です。
菅原 旋盤1つ、工員1人。
山木 ええ。それが、猪苗代という
隣の町で始まったんですが、
冬は雪もすごいし、
昔は新幹線もなかったですしね、
高速道路も、東北道ができる前でした。
それでも「人がいい」と父がほれ込みました。
そして他に大きな会社がないので、
採用も有利だということで、
ここに本格的な工場を作ろうということで
移って来たのが、この磐梯町です。
私も、子どもの頃、よくここに、
カブトムシを取りに遊びに来ました。
山ほど取れましたよ。
今は珍しくなりましたが。
そして1993年に、今の建物ができました。
シグマは上場もしておりませんし、
自己資金で全部やっていかなきゃいけないので、
利益を得ては、少しずつ再投資して、という形で、
少しずつ、少しずつ、工場を拡張してきました。
ですから本当に迷路みたいな形になっています。
敷地面積は7万6千平米、
床面積が5万1千3百平米です。
現在、正社員、契約社員、
業務請負の方を含めて、
約1,500名の方が働いています。
菅原 昼夜っていうことは、24時間稼働なんですかね。
山木 いえ、二交代制ですね。
レンズ加工と金属加工のところは、
夜勤をやっています。
組み立ては、昼だけです。
製造品目は、「交換レンズ」
「デジタルカメラ」「その他光学機器」ですが、
今は「その他光学機器」というのは、
ほとんどなくなっています。
レンズって、いろんなことに応用されてまして、
以前は監視カメラ用のレンズですとか、
プリントとかコピー用のレンズ、
プロジェクター用のレンズとか、
いろいろ手がけてたんですが、
そういう機器に組み込まれるものって、
だんだん、コスト競争が厳しくなってくるんですね。
当社はこの日本の工場しかありませんので、
海外に工場を持つメーカーさんには
価格面ではたちうちできません。
採算が合わないということで、今はもう、
交換レンズとカメラとフラッシュ、
ここだけに特化しています。

交換レンズも、90年代の初めまでは、
他社さんよりも安いダブルズームみたいなもので
やっていたんですが、
円高になって、このままでは生きていけないという
状況になりました。
そのとき、海外に外国に工場を持って、コストが安い所で、
あくまで安いものを作り続けるという選択肢と、
ここに残って、ここでできることをやるという
選択肢がありました。
もちろん先代も迷ったと思うんです。
でも、生産拠点を海外に移すという道は選びませんでした。
当時、本業が忙しすぎて
十分な準備ができなかったということもありますが、
うちくらいの事業サイズだと、海外に出るためには、
当然、日本側を縮小しなければいけないんですね。
上場企業ですと、社長の任期って6年くらいなので、
その時点での利益を最大化するという意味では
歓迎されるのかもしれませんけれど。
うちの場合、父も長く経営を取り仕切ってましたし、
若い頃から知っている社員を
効率化のために切ることなんてできませんしね。
逆に、いまいる場所に残って、
ここで自分たちにできることをしっかりやろうということで、
製品をきちっとした尖ったものにして、
製品も、品質も、良くしていく方向にしようと
90年代の後半から、取り組んできたんです。
それが、今、こういう形で実を結んでいるんだと思います。
その父も、2012年の1月に他界しまして、
私が、こうしてその跡を継いでいるということです。
菅原 とてもよくわかりました。
最終製品にするところまで、
全部ここ会津工場でなさってるんですね。
山木 はい。けれど、もちろん、細かい部品などは
当社だけでは全部できません。
サプライヤーさんがこの地域にたくさんおられますので、
その協力をいただいてます。
今、当社のカタログに掲載している製品は、43機種あり、
このうち月に20機種くらい生産するんですが、
最終的にはすべて会津工場を通って
世に送り出されています。
外注加工はすべて国内ですが、
CPUとか、こういう基板類とか、モーターの一部には
海外製品もあります。
ただ、調達は、フォビオンセンサーを除いては、
すべて円で購入しているんですね。
ですから円高の時は、本当にきつかったですね。
全部円で仕入れて、給料や外注加工費も円で払って。
ですが収入は、8割がもう外貨ですから。
つまり、ドルとかユーロとかポンドです。
同じものを同じように売っても、
為替レートのために売り上げは25パーセントダウン、
ということもありました。
けれどもうちは大手ではないですし、
外注加工屋さんとも、本当に古くからお付き合いがある。
そこはもう「一緒に頑張りましょう」、ということですね。

(次週につづきます)
2013-11-28-THU
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