今回はとても個人的な“色”のお話です。
ぼくが、写真を撮る、ものをつくるうえで
いちばん大切にしていることは、
「それはほんとうのことなのか?」ということです。
たとえそれがフィクションであっても、
ぼくたちが暮らす日常とのつながりはあるのか?
ということを考えます。
すこし昔の話をします。
1995年、映画監督の中川陽介氏より
短編映画の撮影の依頼を受けました。
下町を舞台に、美容院アルバイトの少女が、
危険な仕事をしている男の子と恋に落ちる、
かなしい物語でした。
ぼくは、撮影地の選定を始めるにあたって、
まずその舞台が日常的であることを
大事にしたいと思いました。
庭先にある植木や玄関先の鉢植えも含めて、
植物や動物もしっかりと、
生き生きと存在している世界、
そして、そんな小さな命と
人々が同居している街を探したいと思ったのです。
当初は、東京で探しました。
都心で、近郊で、
ドラマと日常がうまくつながってくれるような世界を
探して歩きました。
けれどもなかなか「ここだ!」という場所は
見つけられません。
当時、よくダイビングをしに
沖縄に行っていた中川監督が言いました。
「菅原の言っているような感じの街、那覇にもあるよ」と。
その言葉を頼りに、那覇に向かいました。
すると、そこにはまさしく探していた世界が!
ぼくは首から「ヘキサー」というフイルムカメラを下げて、
目に入ったものをすべてを、
まるで自身の目にその光景をしみこませるかのように、
一枚一枚、ゆっくり丁寧にシャッターを切り続けました。
ぼくは那覇の街に暮らしたことはありませんが、
その時にずっと感じていたのは、
まるで、昔のメンコであるとか、
ざっくりとした古い印刷物の中にあるような
独特のあたたかい色彩で、
それこそがこの映画の世界観だと感じたのでした。
映画のタイトルにも、
そのことが大きく関係しています。
あくまでも舞台は日常ですが、
その中で非日常が描かれるのがドラマです。
その時、初めて目にしたのですが、
沖縄の魚屋さんには、
ぼくたちにとって一見熱帯魚のような魚が
食材として売られています。
真っ青な魚もいました。
そのすがたを見て、ぼくは、
同じ日常であってもこんなに違うのだと驚きました。
そしてそのちょっとした違いを描くことは、
“日常”の中における“非日常”を、
とても自然に映すことにつながるはずだと。
ぼくたちは、この映画に
『青い魚』というタイトルを付けました。
主役の大内マリさん演じる「涼子」は、
映画の中で、まさに「青い魚」です。
そして、この街は「海」。
そこで彼女は「青い魚」として、
普通に泳ぎながら日常を生きています。
「涼子=青い魚」は映画の中では特別な美しい魚ですが、
那覇という街の日常の中では、
観賞用の熱帯魚ではなく、食材です。
この映画「青い魚」を撮影したのは8月でしたので、
暑いなんてものではなかったのですが、
そんな真夏の沖縄で撮影監督だったぼくは、
毎日毎日、朝早くから夜遅くまで、
およそ1ヶ月にわたって、撮影を繰り返しました。
それまでに、コマーシャルフイルムは
何本かやらせてもらった経験がありましたが、
映画となると、ぼくにとっても初めてのこと。
35ミリフィルムの映画用のカメラは
けっして軽くありませんし、
撮影だけでも、ぼくを入れて4人体制。
出来るだけ、自然に写したくて、
レンズも、ズームレンズは一切使用せずに、
すべて単焦点レンズで撮影しました。
自身が撮影するカットのフレームや
つながりはもちろんのこと、
そのフレームの中での光について、
すべてのカットに対して、
照明さんと、伝えられる限りの言葉で
打合せを繰り返し、
美術さんにも、スタイリストさんとも、
「色」の話を何度も話し合いました。
当時すごく狭かったぼくの事務所に
座れないほどの人を集めて、
映画の世界観、色彩の世界を共有するための
第1回目のミーティングの時から、
現場でのミーティングの時も、
最後の最後まで、
ロケハン時に撮影してプリントした2冊のファイルを
何度も何度も見返しました。
この映画にとって、その写真は
とても大切なものとなりました。
幸運にも、映画『青い魚』は、
公開前に、写真集として発刊され、
翌年にはベネチア国際映画祭の正式招待作品として、
海の向こうで上映されました。
当初の予定では、その後もう少し撮影を加えて
短編映画ではなく、最終的には
劇場公開用映画を目指しました。
残念ながらそれは叶わぬ夢となってしまいましたが、
それでも、ぼくにとっては、
この映画『青い魚』に参加できたことは、
とても大きな経験となりました。
そして、大切な仲間も生まれました。
その後、沖縄では何度繰り返してもうまくいかなかった
木漏れ日の撮影がひとつのきっかけとなって、
最終的には、奄美大島で、
「湿板写真プロジェクト」というかたちでの
撮影につながっていきました。
今では、そこで出会った新たないろいろが、
ぼくの日常の一部になっています。
しかもそれは、20年たった今でも
脈々と続いていているのですから、
すべてのものごとはつながっているのだなと感じます。
次回は、そんな奄美のお話をします。
2016-11-17-THU