映画『青い魚』の撮影を終えた後、
うまくいかなかった木漏れ日の撮影を
なんとか出来ないものかと、一人で沖縄に残り、
映画用のカメラではなく写真用のカメラで
撮影を繰り返しました。
映画の撮影の現場はたくさんの人がいます。
それに比べて写真の撮影はほとんどの作業が一人。
いきなり一人になってしまったので、
心細く感じることもありましたが、それはそれ。
久しぶりの静かな写真の時間は
ぼくなりに楽しいものでした。
それにしても、木漏れ日は、相変わらず
なかなかうまく写ってくれません。
沖縄にはあまり大きな山がないこともあって、
いわゆる「森」のような場所がありません。
もう少し山深い方が適しているのかもしれないと、
鹿児島県の奄美大島に向かいました。
そこは、驚くほど大きな森が──というよりも、
島のほとんどが山でした。
ここならば、きっと木漏れ日が撮れる。
そんな予感がしました。
奄美大島は、大学生の頃、
田中一村の絵画を観て以来、
ずっと行ってみたいと思っていた島でしたが、
初めてということもあって、土地勘がありません。
そこで紹介してもらったのが、
「観光ネットワーク奄美」の西條さんという人でした。
この、今では大の仲良しの西條さんとの出会いが、
ぼくにとって、木漏れ日はもちろんのこと、
奄美という大切な場所との縁の始まりでした。
最初に連れて行ってもらったところが
奄美大島の中心に位置する湯湾岳(ゆわんだけ)にある
「マテリヤの滝」。
ここは、ユタなどのシャーマンが集う
奄美最大のパワースポットと言われる場所です。
「マテリヤ」とは、「真っ直ぐ照る」という意味。
その名の通り、滝の近くで上を見上げると、
たしかにその場所だけが抜けていて、
そこから青い空が見える。
ぼくは、その場所が気に入り、
なんとしても、木漏れ日と共に、
この「真っ直ぐ照る」光を写してみたいと思いました。
映画『青い魚』の時、木漏れ日の撮影は、
大好きな映画カメラマン、
宮川一夫さんへのオマージュでしたが
(宮川さんは、ぼくが大学のときの先生でもあります)、
何度も木漏れ日の撮影に試行錯誤をくりかえす中で、
技術的に、ひとつ気が付いたことがありました。
宮川先生が映画「羅生門」を撮影されたのが1950年。
ぼくが映画『青い魚』を撮影したのが1995年。
その45年の間に、圧倒的な技術の進歩と共に、
フイルムやレンズといった、
撮影にまつわるすべてのものごとが
変わっていたということです。
変な言い方ですが、「よく写る」ようになった分、
「うまく写らなくなってしまった」部分もあるのです。
例えばそれが、「まぶしい」であるとか、
「キラキラ」とした、とても曖昧な光の表現など。
そのことも手伝って、木漏れ日を撮影しても、
同じようなまぶしさも、キラキラとした感じも、
うまく写すことが出来なかったのです。
そんなことを感じていた頃に、
偶然にも、ニューヨークのギャラリーで、
「眩しい」と感じる写真に出会いました。
それは、サリー・マンという女流写真家が、
彼女の自宅の近所にある森を写した写真でした。
「すごくいい、しかもすべての写真の光があたたかい」
ぼくは展示してある写真を食い入るように、
一枚一枚じっくりと鑑賞しました。
すると、図録のライナーノーツの中に、
「Wet Collodion Glass Process」という言葉が。
これが「湿板写真」でした。
以前にも、古い写真集を観ていて、
「そうそう、木漏れ日の感じはこの感じ」
と思っていたのも湿板写真でしたので、
帰国後、すぐに湿板写真に挑戦してみようと、
ぼくなりにいろいろと調べてみたのですが、
当時は、日本においてはまるで情報がありませんでした。
そこで、プリンター(写真でプリントを担当する専門職)の
久保元幸さんに相談し、薬品から機材まで、
二人ですべてを一から始めることとなりました。
「湿板写真」というのは、幕末の頃に蘭学と共に、
日本に入ってきた古典技法です。
よく知られている写真としては、
あの、よく見る坂本龍馬の写真。
「湿板=しつばん」というぐらいですから、
まさに、濡れている間に撮影します。
ガラス板に乳剤を塗布してからおよそ20分の間に、
撮影=露光はもちろんのこと、さらに現像まで、
乾く前に、すべて終えなければなりません。
その為、撮影場所の近くに
現像作業を行うための場所が必要となります
(悠長に、スタジオまで持って帰る
わけにはいかないのです)。
プロセスによっては、暗室作業になりますので、
ぼくらは、テントを遮光して、暗室としました。
写真を始めてから、初めての、
「写らない」というところからのスタートでした。
それでも運がよかったのは、
インターネットで「Wet Collodion Glass Process」
という、アメリカ人によるフォーラムサイトを
見つけたことでした。
アメリカの歴史マニアたちが、
南北戦争当時の写真を再現しようと、
湿板写真の研究をしていたのです。
そこに、失敗写真と共に現状を書き込みました。
すると、ぼくの質問にKENさんという
ひとりのアメリカ人が答えてくれました。
KENさんは「東芝」の社員で、
近いうちに東京出張があるというので、
具体的に教えてもらえることになりました。
そんな幸運な偶然がいくつも重なって、
ぼくの湿板写真プロジェクトは、
一気に加速していきました。
KENさんに教えてもらった方法を元に、
桜の撮影をしてみたり、
富士山を撮ってみたり、
いろいろな撮影テストを繰り返しました。
久保さんも、ものすごくがんばってくれて、
結果的には、ぼくたちにしか出来ないであろう
唯一無二の湿板写真が出来るようになりました。
そして、いよいよたくさんの機材と共に奄美に向けて出発。
往路だけでも東京からフェリーでまるまる2泊の
長旅を終えて、いよいよ待望の撮影開始です。
もちろん最初の撮影地は「マテリヤの滝」。
ところが、たくさんテストをしてきたにもかかわらず、
環境の違い(温度や湿度)で、
なかなかうまく写ってくれません。
それでも不思議と、ここにある真っ直ぐな光が
いつかは必ず写るような気がして、
朝から夕方まで、何度も何度も撮影を繰り返しました。
なんとか写るようになって来たかと思うと、
また写らなくなってくる、といった具合に、
一進一退を繰り返しながらの撮影でした。
久保さんもほぼ一日中
暑い簡易暗室の中にいるわけですから、
ものすごく疲れていたはずです。
それでも毎日撮影後、ぼくたちが合宿所と呼んでいた
海辺の小さな別荘のようなところに戻ってからも、
深夜遅くまで、薬品のテストを繰り返しました。
その薬品を使って、撮影に出かける前に
夜明けの海を撮影してみたり、
撮影から早く戻ってきた時には、
日没前の海や空を撮影してみたり、
目の前に拡がる海さえも、何度も何度も撮影しました。
不思議なもので、最初はテストのつもりだった
そんな海辺の写真たちも、
今ではとても大切な写真となりました。
というわけで、
木漏れ日の写真を撮りに奄美に向かい、
木漏れ日の写真を撮るために湿板写真を始めたのですが、
なかなか満足な結果にたどり着くことが出来ませんでした。
途中で諦めかけたこともありましたが、
それでも投げ出さなかったのは、
大切な仲間たちが皆、
自分のこととして関わってくれていたからです。
当たり前の話ではあるのですが、
つくづく、一人で出来ることなんてひとつもありません。
特に写真の場合は、被写体という相手がないと、
写真にさえなりません。
だからぼくは、この黒い海の写真を観る度に、
この写真こそが、ぼくが
「あかるいところ」へ向かうことが出来た
大きな光の入り口のように感じているのです。
次回は、今回の続き。木漏れ日撮影のお話です。
2016-12-01-THU