夜のご用意はどういたしましょう‥‥、というリッコに
ボクは、ハンバーガーを夕食にした、と笑顔で伝える。
よろしゅうございましたと答える彼に、ボクは一言。

「今日はもう、プライバシーをいただけませんか?」と。

ボクを待つことだけを仕事にしている彼の、
その仕事を終わらせるコトができるのは
ボクのこの一言だけ。
彼はニコリと微笑みながら「よろこんで‥‥」と。
「プライバシーこそが最高の贅沢でございましょう」
と言葉を添えて軽く会釈する。
そのまま部屋を退出するのかと思っていると、
彼は、確かな声の調子でこう続けます。

「ただその前に、明日のご予定を
 お聞かせ願えぬものでしょうか?」





なるほど。
それもそうと、クローゼットの中のブリーフケースを手に、
ソファに座ってスケジュール帳を開いて明日の打ち合わせ。
「よろしければ」とリッコが差し出すティーカップ。
中にはボク好みに仕上がった、
熱いアールグレーのミルクティー。

明日は9時半にはチェックアウトをしたいから、
8時には起こしてくれませんか?

電話でおめざめになりますか?
それともノックいたしましょうか?

「起こして」というその一言に、
また質問をしてくるリッコに、
ボクは負けるもんかと次々、
思ったままを言葉にします。

起きたらシャワーを浴びるから、
電話で起こしてくれればいいから。
9時半にはルームサービスで朝食を。
玉子2個のフライドエッグを、
白身の縁が茶色いフリルになるくらいまでよく焼いて。
黄身は潰れて構わないから。
オレンジジュース。
カフェイン抜きのコーヒーに、
薄切りにしたオールウィートのパンを
よく焼ききったドライトーストにして添えてください。
そして、ハムは何があるのですか? と‥‥。

聞いてしまった。

ボクは思った。
彼の答えは大体、わかってる。
「ミスターサカキのおっしゃるがまま」って、
結局、ボクへの質問になるに決まってる。
案の定、リッコはニコリともせず、
「ロサンゼルスにございますハムは、
 すべてミスターサカキのハムでございます」。
そうでしょうとも‥‥。
脂ののったジャンボンブランを厚めに切って、
軽くソテして添えてください。

それにしても、食事のコトになるとスラスラ、
次から次へと言葉が出てくる。
そんなボクに、リッコは聞きます。

ミスターサカキがハンバーガーを召し上がられた
レストランは、坂道を上がった先の角のお店では
ございませんか?
もしそうだとしたら、ナイスチョイスでらっしゃった。

そのとおりなのだけれど、
リッコはどうしてそう思ったの? と、ボクは聞きます。
おいしいモノに鼻のきく方は、
この界隈で、たいていそのレストランを選ばれます。
しかもお夜食が必要ないとなれば、
充分、満足召されたようでホッといたします‥‥、と。

なるほど、彼の仕事の中には
ボクという人間を理解すると言う仕事が含まれている。
含まれていると言うよりも、
その手順を踏まなければ彼は先に進めぬほどに、
それは大切なコトなんだ、とそのとき感じた。
ボクは果たしてどんな人として、彼に見えているんだろう。
ただの食いしん坊のように見えているのなら、
当たらずとも遠からずにてそれはそれでよし。

ジャガイモはリヨネーズにしてもらえますか?
そう付け加えてカップの紅茶を飲み干した。
さて、これで明日の朝は大丈夫‥‥、
と思うボクにリッコはなおもこう問いかけます。

お車のご用意はいかがしましょう?





そうだった。
明日、ココを後にして向かうのは少々不便な郊外の街。
車なしでは移動できない場所だった。
タクシーを呼んでいただけませんか? と言うと、
部屋の車をお使いになってはいかがですか? と。
聞けば、このペントハウスには
滞在客が自由に使える車が一台、用意されてる。
チェックアウトして半日ほど。
例えばボクが打ち合わせ場所に向かってその後、
次のホテルにチェックインするまでくらいなら
使ってもよい。
本当にただでいいの? と聞けば、やんわり。
「今夜、ミスターサカキが召し上がった
 ハンバーガーが食べられる程度のチップを、
 ドライバーにやっていただけると、
 尚更、うれしゅうございます」。

ならばと車を使わせてもらうことにし、打ち合わせの場所、
そして明日から泊まるホテルの名前を告げる。
つまり明日ほぼ一日分のボクのスケジュールを結局、
リッコに伝えることになったワケです。
それにしてもなぜ、ここまで、
ボクにサービスをしてくれるんですか? と聞いてみる。

ミスターサカキが、次のホテルにお着きになるまで、
安全で快適にお過ごしいただけるよう
心配りさせていただくのが、
ワタクシの仕事でございますゆえ。

そうかぁ‥‥。
ボクはそうした心構えの人に
サービスしてもらってるんだ‥‥、と、
思わず背筋が伸びるような思いになった。
そして再び、
「それではプライバシーをいただけますか?」と。
リッコは言います。
「何かございましたらベルをお鳴らしいただけましたら、
 すぐに参上いたしますから」と。

ありがとう。
そう言えば、今、
メトロポリタン歌劇団が引越し公演をしてるんですネ。
今日の演目はプッチーニの大好きな曲。
もし、知っていればチケットをとっておくのだと
思いました‥‥、と、何故か一言。
ボクは彼と、なんだか世間話めいたコトを
無性にしたくなったのですネ。
それに続いて、おやすみなさいの挨拶をする。
ボクはひとりになりました。




それにしても見事な部屋です。
広いだけという訳じゃない。
調度を含めてすべてが上等。
しかもどこもキレイに磨き上がられ、
得も言えぬあたたかさに満たされている。
ずっと起きていたい。
そう心は願う。
なのに瞼はドッシリ重たくかぶさって、
いつも以上に深い眠りがやってくる。
あとは、夢の舞台もこのゴージャスな部屋が
舞台であってくれればいいのになぁ‥‥、
と祈るばかりで夢の人。

ベルがなります。
朝を告げる電話のベルが、ベッドサイドで鳴り響き、
目を開け、ボクはシャワーを浴びようと
ベッドルームの隣に続くバスルームのドアを
そっと開けます。
中から明るい音が流れてやってきます。
バスルームのスピーカーから流れてきているその音楽に、
ボクは何故? と思ってしばらく、
ドアのところで立ち止まる。
ボクの好きな曲。
何故、この曲が?
答えは来週、全てはリッコのなせるワザ。

 



2011-02-03-THU
 

 
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN