「O mio babbino caro」。

その曲は、プッチーニの手になるオペラ、
「ジャンニ・スキッキ」の中の有名なアリア。
天使の羽根がひらひら、
空から舞い降りてくるようなシアワセな音。
数あるオペラのアリアの中でも、
これほどうつくしく、朝にふさわしい曲はない。
そう思っているまさにその曲が、
バスルームから流れてくる。

偶然なのか?
それともボクの目覚めのため、
何かの理由で選ばれたのか?

昨日、寝たときには完全にしめられていたカーテンが、
朝の光でまぶしいほどに明るいバスルーム。
あぁ、リッコがカーテンを開けてくれていたんだなぁ‥‥。
真っ白な天井にふわふわ、
まるで宙を泳ぐクラゲのような光が踊る。
何が光っているんだろう‥‥。
そう思いながら、その光がやってくる方向を追う。
象牙色した大理石の洗面台。
グラスが二つ並んでて、
そのどちらもが水で満たされ、置かれてる。
ひとつはおそらく常温でしょう。
グラスに水滴のひとつもついてはなかった。
もう片方にはタップリ、氷。
ビッシリ、細かな水滴がつきサラサラ、細かな氷が揺れる。
そこに朝日が当たって光り、クラゲを宙にうつしてた。
グラスの横には大きなボトル。
ラベルはヴィッテル。
ボクの目覚めのためにリッコが用意したのでしょう。

あぁ、そうだった。
昨夜、ボクは別れ際にリッコに言った。
「メトロポリタン歌劇の今日の演目は、
 ボクが好きなプッチーニだったんだ」って。
それはジャンニ・スキッキだ‥‥、
ってコトを彼ならわかるはず。
その一曲を、今朝のボクにプレゼントしようと、
そう思っても不思議じゃない。

ボクはその朝、ボクのために誂えられた朝を迎えた。





冷たい氷の水をゴクッと一口飲んで、体をさます。
ヴィタミン、ミネラル、その他あれこれ
サプリメントの錠剤を飲み、常温の水でゴクゴク、
お腹に流し込む。
髭を当たって、歯を磨き、
熱いシャワーを浴びてタオルで体をぬぐう。
あるべきものがあるべき場所にあり、
手を伸ばせば必ずそこにボクが必要とするものがある。
バスローブを着て、リビングルームに続く扉を開ければ、
おそらくそこにはリッコが待ってる。

果たしてリビングルームには誰もおらず、
そうだ、このペントハウスには
ダイニングルームが別にあったんだ。
うんざりするほどに広いスイート。
明るいと眠れぬボクは、
昨夜、部屋中の電気を消すため
スイッチをひとつひとつ消して歩いた。
天井からぶら下がるランプ。
間接照明。
フロアーランプにデスクランプと、
消しても消しても暗くなっていってくれない。
それこそこの仕事をリッコにたのめばよかったと、
特に大きなテーブルがガランと置かれただけの、
ひえびえとしたダイニングルームをみながら思った。
そのダイニングルームのテーブルに、
真っ白なテーブルクロスがひかれ
バラの花が無造作に放り込まれた小さな花瓶。
ホテルのロゴで飾られたプレースプレートに
ナイフとフォーク。
氷水をタップリたたえたグラスの横に、
ヴィッテルの瓶。
天井には光のクラゲがユラユラゆれて、
けれどリッコの姿はどこにもなかった。

人の気配はあるのだけれど‥‥。

「おはよう、リッコ」。

昨夜、自分で作ったプライバシーを
終わりにするのも自分の仕事。
するとキッチンのドアがあき、
「グッドモーニング、ミスターサカキ」
とリッコがでてくる。
彼に続いてテリーと名乗るコックコートを着た
目のクリクリとした黒人シェフと、
ドロレスというヒスパニック系の
背の低い小太りのメードが出てきて、挨拶をする。
ボクは決して有名ではなかったけれど、ここでは実名。
その実名のボクにサービスをしているかれらも、
匿名ではなく実名で、
実名のサービスを実名で受けるというコトの特別を、
ボクはそのとき、シミジミ感じた。




リッコがオレンジジュースとコーヒーを準備しはじめる。
厨房の中から玉子の焼ける音と匂いがやってきて、
ドロレスがベッドルームのメークをはじめる。
トースターと薄切りのオールウィートブレッドが
ワゴンと共に運ばれて、
リッコがボクのかたわらでトーストを焼く。
この厚さがお好みの厚さでしょうか?
と、そういうリッコにボクは、
パーフェクトって答えて、続いて、
もしこの厚さでなかったら、どうしたの? と聞く。
ワタクシがキッチンで切ってまいりましたから、
もしお好みでなければ再び、切ってくれば
すむコトでございます‥‥、と。

惚れ惚れするほどうつくしく焼きあがった
フライドエッグと、脂が舌にまとわりつくような
ジャンモンブランのソテをいただく。
香ばしいほどに良く焼けたトーストがまず一枚だけ。
そのカサカサをたのしんでると、
ボクの食べるそのスピードにあわせるように
次の一枚が焼けていく。
いつも焼き立て。
どれも同じ焼き具合。

ルームでサービスする食事。
それが本当のルームサービスなんだなぁ‥‥、と。
そう思いながらとびきりの朝を味わっていると、
キッチンの電話がチリンとなった。
ボクのための電話ではなく、
リッコのための電話がなって
一旦彼はキッチンの中にさがってく。

ミスターサカキ。
フリーウェイでつい先程、
大きな交通事故が起こったようで、
念のため、なるべく早くお出かけになった方が
よろしいかと存じます。
車はもう、出発の準備ができておりますゆえ、
お支度をそろそろされてはいかがかと‥‥、と。
よし、わかった、ありがとう。
それなら荷造りをしなくちゃね‥‥、と、
そういうボクに、
必要なお荷物だけをお持ちいただければ
残りは次のご宿泊先にお届けします。
ご心配なく‥‥、と。

ブリーフケースに今日の書類と貴重品を詰め、
昨日、リッコがアイロンをかけてくれたばかりの
スーツをまといロビーに降りる。
エレベーターの中。
下に降りればマネージャーが待っているはず。
彼の手の中には、
今回の夢の如きステイの対価がしるされた
請求書があるに違いない‥‥。

 



2011-02-10-THU
 

© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN