ボクはホテルのマネジャーと、
ロビーラウンジの片隅にいた。
ミルクを入れたアールグレイが、
当たり前のようにボクの前にそっとおかれて、
彼はボクにこう切り出した。

「ステイはたのしんでいただけましたか?」

眠ってしまうコトが勿体無く思えるほどにうつくしい夜。
このまま旅立ってしまうことが惜しくなってしまうほどに
すばらしい朝。
安眠と安全な旅立ちを約束するのが
ホテルの役割だとするならば、
いささか異色の体験をさせていただきました。
ボクは精一杯、シニカルな英国紳士を装って
憎まれ口をひとくさり。
そしてニッコリ。
笑顔で右手をさしだしました。

握手をしながら、
「リッコがミスターサカキのヒントは
 どれもチャーミングで、
 サービスしていてたのしかった」
と言っておりました、とマネジャーが言う。
そして皮の表紙の書類挟みをボクに手渡す。
開くと一枚、計算書。
数字がいくつか、並んでいました。

一番上に「Charge of Room」$375とある。
ボクが本当は泊まるはずだった、
デラックスダブルの一部屋分の部屋代。
それが375ドル。
そのすぐ下に、-375と数字があって、
つまりボクが出発前に振り込んだ
旅行代理店からの決済が
すでに終わっているコトを示してる。
それに続いて、「Breakfast : in room dining」。
つまり、ルームサービスで食べたばかりの朝食、
$21.55。
そしてずらっと空白の欄が続いて、
下の方に数字がひとつ。
「Subtotal」$21.55。
つまり、ボクにその朝、
ホテル側から請求される金額は
たった21ドル55セント。
その計算書のサブトータルの欄の下には「Gratuity」‥‥、
つまりチップの金額を書き入れるための項目があり、
一番下には総合計。
「Total Charge for Stay」
と書かれた欄が用意されてる。
ボクがチップの金額を書きこむか、
あるいはチップを含む総金額を書きこむことで
請求金額が決定されるという手順。
そしてその請求総金額とはつまり「宿泊代」ということ。

「部屋代」と「宿泊代」は違うのです。
ボクのステイを気持ちの良いモノにしてくれる人の熱意と
仕事とかかわりあいが、多く、
しかも濃密であればあるほど、
その「宿泊」はステキな思い出に満ちたものになる。
ホテルなんて安眠できればそれで良いのだ‥‥、
という人もいるかもしれませんけど、
すべてのホテルがそんな寝袋のような存在に
なってしまうのは寂しい限り。
「外食」をたのしむのもまさに同じこと。
「心地良くお腹を満たしてくれる食事」に、
「よりたのしい思い出に満ちたモノにしてくれる人と
 環境」がくわわるコトが、
ステキな外食の最低条件なのですね。





さてさて、いくら払うべきか、
ボクはしばらく思案しました。
あの部屋。
しかもあのサービス。
人一人のほぼ一日を独占するという贅沢までも味わった、
その経験に一体どのくらいの値段をつけるべきなのか。
タップリ払って、
鷹揚でキップの良いところを見せたくもあり。
けれど、何事においても
「過ぎるコトは下品である」と、ボクはずっと思ってた。
強欲に稼ぎすぎる人は下品な会社を作ってしまう。
節度を持った贅沢は微笑ましいコトではあるけれど、
過ぎた贅沢は下品をふりまく。
品性を保てる程度の、
しかし相手に対して敬意を十分表すことができる
チップの金額を自ら決める。
それははじめて真剣に、
「自分が受けたサービスに対して値段をつける」
というコトを経験した瞬間でした。

すばらしい部屋。
一体、一泊、幾らで販売されているのか
検討すらつかぬあの部屋に、
再び泊まりたいかと聞かれれば、
ボクは丁重に「ボクには過ぎた部屋ですから」
と辞退したでしょう。
けれど、リッコがボクにかけてくれた魔法に満ちた
あの様々を、また経験したいか? といえば即答。
ぜひ、再びと絶対に言う。
今、この場所を去りがたいと感じる
ボクの感動のほとんどすべてが、
部屋代の中に本来、含まれていないモノ。
そう思ったら、少なくともボクが払った
375ドルのルームチャージ以上のチップを
彼や彼らに払いたい。
都合のよいことに、
支払金額を400ドルにもしすれば
朝食代をそこから引いても、
380ドルほどのチップがリッコの手元に残る。
ボクは、シャッと一本斜めにチップの欄に線を引き、
一番下に「$400.00」と力強く書き込んだ。

「エクセレント」とマネジャーはその数字をみて、
ほほえみます。
ただそれで本当に十分だったのかどうか、
ボクは心配でしょうがなく、
よほど不安げな表情をしていたのでしょう。
「Not too much, not too sad,
 decent enough for Ricco anyway」
と、彼は続けて
ボクが差し出したクレジットカードと共に
オフィスに一旦、姿を消します。

多すぎず。
その金額が寂しすぎず。
なにより、リッコを喜ばせるのに
十分なチップであったという彼の言葉は、
ボクにとって大切な試験をパスした
合格通知のように響いた。
うれしかったなぁ。
自分が受けたサービスの値段を自分で決めて、
しかもその決めた値段を褒められる。
サービスとは一方的に受けるモノじゃなく、
互いが認め合いシアワセになりあうために
あるモノなんだと、このとき、あらためて心にしみた。






ボクのサインを待つばかりの
クレジットカードの書類をもって、
戻ってきたマネジャーに
ボクは気になっていたコトを思い切って聞きました。

昨日泊まった部屋は、
いったい、幾らで泊まれるのか? と。

厳密な値段がついているわけではないのです。
既製服と違って、
あつらえ服が一着一着、
たとえ同じ生地を使っていたとしても
値段が異なって当然のように、
私たちはあの部屋を毎回、毎回、
お泊りになるお客様のためにあつらえなおす。
一回たりとも、同じ部屋、
同じ時間や経験をお売りせぬ、
その仕立て人がリッコのような
熟練したサービススタッフ。
大企業の重役のビジネストリップにおいては
英国服のごとき几帳面。
秘密めいたバカンス旅行の
おいては上等なシルクのシャツのごとき艶やかさをもって、
おもてなしをする、だからその都度、値段は変わる。
それにお客様がお持ちになる財布もそれぞれ異なる。
見栄っ張りの財布を持ってくる人もいれば、
倹約家の財布を持ってくる人もいて、
中には「富豪の財布」をもってこられるお客様もいる。
富豪の財布とおつきあいするのは、
それはそれはたのしい仕事。

ただの大金持ちじゃない。
使っても使っても、無くならぬだけのお金と
幸運に恵まれている人たちは、
自分の夢は願えば必ず叶うものと思う人達。
その夢を叶えるために選ぶ場所がここ。
そういえば、ミスターサカキの前にお泊まりになった
東南アジアからこられた富豪一家は、
あのペントハウスに1週間いて
5万ドルほどを置いていかれた。
叶った夢の対価として、
決して過分なものではなかったと
私もリッコも思っています。

それはそうと、富豪でもなんでもないボクを
あなたは何故、あの部屋に泊めてみる気になったのですか?

ボクは聞きます。
晴れぬ疑問。
最後の質問。

彼はひとこと、こう言います。

「ミスターサカキは
 富豪のココロをお持ちでらっしゃるように見えたから」

富豪のココロ‥‥、それはなに?

 



2011-02-17-THU
 

© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN