エアラインの搭乗手続きカウンターの前。
バフェレストランの料理の並んだテーブルの前。
ホテルのチェックインカウンターの前のみならず
行列ができがちな場所。
そこでちょっとイライラしてしまいそうになったとき、
ボクは「ココロの富豪」「ココロの富豪」と
頭の中でつぶやきます。

行列に並んだときだけじゃありません。

はじめて行ったレストラン。
次々、お客様がやってきてたちまち満席になってしまう。
お店の人は大忙しで、注文をとるのにも一苦労。
手が回らない。
「お客様、ご注文はお決まりになりましたか?」
って言うお店の人のその声に
「メニューを見ているのがたのしいから、
 ボクはあとでいいですよ‥‥、
 他のお客様の注文を先にとってあげてください」。
そしてニコッ。
それがココロの富豪になれた証であったりします。

「ありがとうございます、これを飲んでユックリ、
 ご注文を決めてください」
そう言いながら、グラスのシャンパンが
ストンと目の前に置かれることがあったりします。
お待たせしましたと言いながら、
シェフが自ら厨房の中から飛び出してきて、
今日の秘密のおすすめをそっと耳打ちしてくれたりする。
まるでエコノミークラスからビジネスクラスに
アップグレードしてもらった‥‥、
そんな気持ちでニッコリできます。
ココロの富豪にふさわしい、
ちょっとスペシャルなおもてなし。

お店の人に余裕がないとき。
ただただニコニコ、
待たされるだけってことになったりしたりする。
まぁ、そんな時の方が圧倒的に多いのですけど、
そんなときには、ココロの財布に貯金をします。
「こんなコトをしてくれたらうれしかったのに」
って淡い期待。
でも、そんな期待を我慢した、
おおらかで気配りに満ちたステキな自分の思い出を、
マイルやポイントをためるように
ボクはそっとココロの中ににしまい込む。
それは自分で自由に使うコトができるモノじゃ
ないんですけど。
でも、ここぞというときに誰かがそれを使って
ボクに奇跡を見せてくれるんだ‥‥、と。
そう思いながら、ニコニコしてると
不思議とステキがやってくる。





そうそう。
ボクをまるで富豪のようにもてなしてくれた
ロサンゼルスの思い出のホテル。
それから半年ほどののちに再び泊まる機会に恵まれました。
さすがに二度も続けて、
奇跡的な出来事がやってくるとはボクも思わず、
果たして当たり前にチェックインをして、
予約してあった通りの部屋に案内される。
フロントの前に陽気でわがままな
ヨーロッパからの観光客がいるわけでなく、
あっけないほど順調にチェックインの手続きは終わって
鍵が手渡された。
部屋に入るともうすでに、
ボクのスーツケースがベッドルームの洋服ダンスの前に
そっと置かれてた。

普通の部屋とは言え、そこは十分贅沢で、
塵一つなくキレイに磨き上げられていた。
デスクの上に手紙が一通。
封を切って、目を通す。






支配人のサインが一番下に添えてあり、
ああ、ありがたいなぁ‥‥と、手紙を畳み、
さて、荷解きでもしようかと
ベッドルームに向かおうとした。
まさにそのとき。
ドアをノックする音がする。

荷物はとっくに届いているのに、
一体、どうしたコトだろう‥‥、
とドアを開けるとそこにはリッコ。
音一つたてずに、優雅にボクの部屋に入ってくる
彼の左手には銀のトレー。
そこにはカップと2つのポット。
「長旅、お疲れさまでございました」
と言いながら、ボクの目の前で
ミルクティーを作って注ぐ。
アールグレイの香りがします。

こうしてミスターサカキのお世話をしたくはあるのですが、
今日はペントハウスがとてもにぎやかになりそうなモノで、
まもなくおいとましなくては‥‥。

そう言うリッコの横顔に、
なんだか胸がつまるような気持ちになって、
手を洗ってくるからとボクはバスルームに急いで駆け込む。
洗面台の上には氷をタップリたたえたグラスに
ヴィッテルの瓶。
大きな鏡の前にはボーズのCDプレイヤーが置かれてて、
もしやと思ってプレイボタンを押すと
「トスカ」がはじまった。

これこそが奇跡なんだ‥‥、とボクは思った。
ペントハウススイートに偶然泊まれたコトではなくて、
その出来事をキッカケに、
ボクが「記憶されるにふさわしい人」であると
認められたコト。
そしてこうして、あたかも半年前のあの出来事があたかも
昨日のコトであるかのように、再びくりかえされる。
リッコにお礼をしようと思い、
バスルームを出ようとしたちょうどそのとき。
「Oh my goodness」とリッコの声が聞こえます。
場所はボクのベッドルームから。

覗いてみると、
ボクの荷物をワードローブに
移そうとしてくれたのでしょう。
開けたスーツケースの前にリッコはたってた。
そしてボクにこう言います。

「ミスターサカキは執事をお雇いになったのですか?」と。

この前のステイ以来、
スーツケースをいつ開けられても
恥ずかしくないように、
キレイにパッキングするようにしたんです。
たった半年の試行錯誤で、
こんな上手にできるようになった。
とは言え、今日、またリッコに
スーツケースを開けてもらうまで
この特技も宝の持ち腐れでしたけど‥‥。

そしてボクらはどちらからともなく、握手をしました。
握手をする、ボクの右手は50ドル紙幣を握りしめ、
それをサッとリッコの手の中に残して引いた。
ちょっと気持ちが高揚してた。
思いがけずの再会と、
期待以上の出来事にボクは50ドルを
リッコに渡して感謝の気持ちを表そうとしたのです。
ところがリッコは、その50ドルを受け取らない。
私がしたコトに比べてこれは、
いかにも「too much」と彼は断る。
そうだった‥‥。
過ぎたるコトは下品なコト。
ボクは思い直して、
50ドル紙幣を10ドル紙幣に持ち替えて、
再び彼に握手をもとめる。
「You are too kind, sir」
とリッコはしきりに恐縮しながら、
強くボクの手を握り返して
その10ドルは彼の手の中に残って消えた。

すべてのものにはほどよき落とし所という場所があり、
そこを互いに見つけるコトが、
もてなし上手、
もてなされ上手になるというコトなんだなぁ‥‥、
と、そのとき思った。
良き思い出でありました。





ところで、正真正銘の富豪のお金の使い方。
それは一体どういうモノか‥‥、
次回からのあたらしいシリーズで、
そっとお教えしましょう。
はるか昔の思い出です。



2011-03-03-THU
 

 
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN