「偵察みたいなもんだから、
お互いなるべく目立たぬ格好でまいりましょう」
実は富豪氏。
はじめて訪れるレストランでは、
謎めいたお客様になるコトにしているのだという。
目立ってわかりやすいお客様。
例えばひと目でお金持ちに見える人とか、
グルメぶった人たちは得することもあります。
とびきりおいしい料理を勧めてもらえたり、
すばらしいサービスを受けることができたりと。
けれど、そのお店のあるがままの姿を観察する機会を
逸したりもする。
ことさら、いいところを見せようとする笑顔の裏の、
必死のさま。
素晴らしいところだけじゃなく、
ちょっと残念なところや、へんてこりんなクセ。
そんなところまで含めてお店のコトを知っておきたい。
そのためには、まず目立たぬように、
分かりにくいお客様を装ってみる。
この人達は、いったいどんな人なんだろう。
お金持ちなのか、
どんな仕事をしているのかわからないけど、
たのしそうに食事をしている。
気になってしょうがない。
こうしたお客様におなじみさんになってくれると、
いいのになぁ‥‥、と関心をもってもらえる。
そんなお客様を装いましょう‥‥、と。
その日、ボクは芯の入っていない
ソフトな仕立ての黒いジャケット。
富豪氏は明るい色のカーディガン。
贅沢にみえる腕時計ははずしてポケットの中に収めて、
ボクらはニコニコ、テーブルにつく。
メニューを開いて、ビックリしました。
さすがに高級。
メインディッシュの料理の名前の右には、
5桁の数字がズラッとならび、
さてどうすればいいものかとさすがにたじろぐ。
ボクの財布を信じて、
食べたいものをいただきましょう‥‥、
と富豪氏らしきひとことに心置きなく悩み、
迷って料理を注文。
さて、ワインはいかがいたしましょうか‥‥、
と差し出されるワインリストを彼はそっと押し戻します。
ワインに詳しくはないモノですから、
今日の料理にあうものを、
一本、選んでいただけますかとソムリエに言う。
あれっ、とボクは思いました。
ワインに造詣が深いばかりか、
高級ホテルのワインセラーも顔を赤らめ恥じらうほどに
見事なワインコレクションを持っている人。
にもかかわらずと思いながらも、
その場はただただなすがまま。
すべては、すばらしい料理にサービス。
ひとつひとつが確実で、シッカリしていて気持よく、
しかも決して堅苦しいところのない店で、
噂は決して嘘ではなかったとそう感じます。
なにより決して特別扱いされるわけでなく、
おそらく今日はここのお店の
標準的なおもてなしをしてもらったのでしょう。
それで十分、満足できたというのがステキ。
すばらしくよくできたザバイヨーネとエスプレッソで
食事を終えて、さて、お勘定。
トロリと熟したグラッパを、
舐めるように味わいながら届いた伝票を二人でみます。
また来る価値がある店か、
今日の食事を評価する通知表がこの伝票。
料理、ひとつひとつを思い出しながら果たして、
この値段がそれぞれの料理に対して
妥当だったか語り合う。
カジュアルな会食の食後のたのしみに、
これほどステキな材料はない。
ボクの選んだメインディッシュが
一番コストパフォーマンスが高かった‥‥、とか、
この前菜はパッとしなかったけど
その分、たのしい会話でカバーしたよねぇ‥‥、とか。
ステキな食事を復習しながら、
たのしい時間を反芻できる。
特に、はじめて来たお店のときには入念に。
あまりに価格と実体が、
かけ離れているとちょっとかなしい。
あぁ、もう二度と来ることがないだろうなぁ‥‥、って、
帰りの準備を急ぎます。
その日は運良く、高くはあるけど
決して高く感じない見事な料理ばかりで合格。
そして富豪氏が、ワインの値段を指さして、
どう、思います? ってボクに聞く。
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