アメリカのコーヒーはおいしくなかった。
家でも、会社でも。
レストランでもコーヒーというのは、
コーヒーマシンが作るモノ。
マシンに粉をふり入れて、タンクにお水をセットした上、
ボタンを押せば出来上がる。
大抵それはガラス製のフラスコって呼ばれる
ポットに落とされ、たまり、
ウォーマーの上であたためられる。
飲みたいときに、それをカップに注いでゴクリ。
時間がたつと酸化して、酸っぱい臭いを発しはじめる。
コーヒーが入ったフラスコを鼻に近づけ、
まだ大丈夫だろうと注いで飲むと、
香りだけでなく味も酸っぱい。
でもこんなもんかと、タバコを片手に
酸っぱいコーヒーを飲みくだしながら、
仕事をしたり眠気を晴らす。
それは「味わう飲み物」というよりも
「気付け薬」のようなモノ。
例えばアメリカでドライブ途中に
コーヒーショップや
ダイナーレストランに立ち寄ろうか‥‥、と。
その目的は、コーヒーでも飲もうか、じゃなく
トイレを借りよう。
あるいはちょっと休憩しよう。
ついでにコーヒー。
そうでなければ、チェリーパイのお供にコーヒー。
決して、コーヒーを飲みに立ち寄ろう‥‥、
という感じじゃなかった。
だから、レストランでも
コーヒーを入れたフラスコに鼻を近づけ、
まだ大丈夫? と確かめる光景が
当たり前にそこらじゅうで見られたのです。
コーヒーは水代わり。
だれもその品質を期待なんかしていなかった。
料理のお供。
あるいは会話のお供のコーヒー。
料理や会話をじゃましないこと‥‥、
つまり、おいしくないことが
むしろ美徳だったのかもしれません。
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