030 超えてはならない一線のこと。その1讃岐うどんのチェーン店のこと。

ボクがまだまだ若かった頃。
若いと言っても30代後半ですから、十分大人で、
けれど実業家としてはまだまだ駆け出し。
飲食店のコンサルタントとして、
着実に実績をあげ自信満々のときのコトです。

1990年代。
夢の様なバブル景気が終わりをむかえ、
それまで不動産や株にむかっていたお金が
どこか別の居場所を探してウズウズしていた時代。
まだ外食産業は伸びしろがあり、
つまりチャンスに満ち溢れていた時代でもありました。
コンサルタントというのは、
人に対してアドバイスをするのが仕事。
そのアドバイスの結果に責任を取る必要がない立場。
責任をとらなくていいから、
自由な発想でアドバイスができるのだ、
と割り切ることは簡単だけど、
それでは気がすまぬような気がして、
それでとある会社を立ち上げた。

おいしいうどんを気軽にたのしむコトができる
ファミリーレストランを、日本中に作りましょう‥‥、
というミッションを持った運営会社。
日本の各地でうどんを主力商品にした
レストランを経営している会社数社と
共同出資で設立をして、商品開発をスタートしました。

当時、「讃岐のうどんはおいしいらしいよ」と、
つぶやかれはじめた時期でした。
コシがあって食べごたえのある
ずっしりとした食感のうどん。
イリコの香りが強烈で、食べると記憶に残る出汁。
まだ本当においしい讃岐うどんを食べられる店は
讃岐以外にはあまりなく、だからこれはチャンスだぞ‥‥、
と、店が増えても大丈夫なように
さまざまな仕組みを作ったのです。



おいしいモノにこだわると、店をたくさん作れなくなる。
すごくおいしいモノよりも、誰が作っても、
いつ食べても同じように感じる
「安定したほどよいおいしさ」を作り出すことが
外食産業で成功する秘訣なんだと、
当時はそれが定石だった。
当然、コンサルタントとしてのボクも、
その考え方にしたがって、
いつでも誰でもおいしい讃岐うどんが作れるようにと
工夫をあれこれ。

麺は冷凍麺を選びました。
当時、最高水準の冷凍技術をもったメーカーと、
日本を代表する製粉会社との
コラボレーションとでもいいますか。
オートプログラム式の茹麺機にポトンと落とせば、
いつも同じ状態のうどんが出来る。
なによりコシ、歯ごたえになめらかなのどごしは
かなりの自信が持てる出来栄え。
そもそもうどんは「麺より出汁」が大切だから、
その麺は出汁ののりの良さを再優先して
店の厨房ではなるべく手間をかけぬようにと考えたのです。

さて、その出汁です。
出汁はとてもデリケート。
出汁をひいた直後がもっともおいしくて、
時間がたつと劣化する。
どこか一ヶ所で作った出汁を、
例えば車でゴトゴト運ぶと、タプタプ空気と混じりあい
短時間でも味が変わってしまったりもする。
だから理想は、店舗ごとに出汁を作れればいいのだけれど
営業用の出汁をとるには大きなスペース、
高価な設備が必要となる。
できればお店の代わりに
出汁を作ってくれるところがあればいいのだけれど‥‥、
と思案しました。

出汁やスープを大量に製造しているメーカーならば
日本全国に何ヶ所もある。
けれどそういうところにたのんでしまうと、
どこにでもある大量生産の出汁になってしまうのですネ。
だからなるべく小さな工場。
できれば家族でやっているようなところがよかった。
条件は、良質な水を大量に使うことができる場所。
大きな釜が常備されていること。
釜で炊き出した出汁を冷水で冷ます設備を持っていること。



ありがたいことに、これら条件のすべてを
備えたところがあったのですね。
豆腐屋さん。
水を使って豆を煮だして豆腐を作る。
作った豆腐を水の中に放して冷ます。
しかも一日のうち、それら設備を使う時間は数時間だけ。
残った時間を使って出汁を作ってくれれば、
どちらも助かるに違いないと、
出店を予定している地域で協力してくれる
豆腐屋さんを探して歩いた。
オモシロイたくらみですね‥‥、と、
協力してくれる豆腐職人の方々と一緒になって
出汁の味を調整しようと、
その最終段階で大きな壁にぶち当たります。

場所によって、水の質が違うのですね。
特に水の硬さが水脈によってまるで違って、
同じレシピ、同じ素材に分量で出汁をひいても
同じようにはなってくれない。
それぞれの場所に合わせて
レシピを最適化しなくちゃいけないんだと思うと
気が遠くなる。
それで結局、日本で有数の
鰹節と昆布の仕入れ問屋さんにお願いをして
作った出汁を真空パックにして配送するコトを決意した。

そして運命の一号店。
場所はなぜだか博多の郊外。
その結末は‥‥。
また来週。


2015-10-01-THU



     
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN