2000年に創業したそば屋「三合菴」。
いまや、予約がとりづらいまでの繁盛店になりましたが、
そこにいたるまでの道は、
どんなだったのでしょうか。
糸井重里が、店主の加藤裕之さんと
おかみさんの真巨(まみ)さんに聞きました。
糸井 | いま、午後3時ですが、 ちょうどお昼休みの時間なんですね。 |
加藤 | はい、ランチタイムは11時半から 14時半までなので、 そのあと、17時半まで、 いったん閉めています。 |
糸井 | 朝は、何時から仕事をしているんですか。 |
加藤 | だいたい、6時ですね。 |
糸井 | そば打ちからですか? |
加藤 | はい、そば打ちから始めます。 |
糸井 | いちばん最初のところから、 聞かせていただきたいのですが、 加藤さんはなぜ、 「そば屋」になったんですか? |
加藤 | そもそも、職人の家庭で育ったので、 サラリーマンになるつもりは 全くなかったんですよ。 父が左官だったんです。 |
糸井 | なるほど。 何になるかは分かんなかったけども、 お父さんのように 職人さんかなあみたいなことは思ってたんだ。 |
加藤 | そうです、そうです。 で、中退こそしましたが 大学までは行ったんですけども、 小さい頃から台所に入るのが好きだったので、 そういう系に行きたいなと思って。 別におそば屋さんじゃなくてもよかったんですよ、 何か料理が作れればいいなと。 それが、たまたま通りかかったそば屋で、 ガラス張りでそばを打ってるのが 見えるところがあったんですね。 それを見て、こんなことができるんだ、 俺もやってみたいなと。 きっかけはそこだったんです。 19歳のときのことでした。 |
糸井 | 凝り性な子でしたか? |
加藤 | どうなんでしょうね。 最初に入った店で、 5年ぐらいお世話になって、 何か自分の考えが少しずつできてきて、 もっといいのをやりたいなとか、 もっと上があるんじゃないかなっていうことで 次のお店を選んで そちらに行かしてもらったので、 凝り性と言えば凝り性かもしれないですね。 |
糸井 | 「あそこ、美味しいよ」って言われる そば屋になる人と ならない人がいるわけですよね。 何が違ったんでしょうね。 最初のお店は普通のおそば屋さんなんですか? |
加藤 | はい。手打ちで、 客席が60席ぐらいありました。 うちの3倍ぐらいですね。 それでも調理場は3人でしたからね。 |
糸井 | すごいですね。 |
加藤 | 朝から晩までそばを打ちっぱなしです。 でもそういう店って、人がいないんで、 新入りにも打たせてもらえるじゃないですか。 だからすごいチャンスだったんです。 普通、入ってすぐ打たせてもらうようなことは、 あり得ないんですよ。 最初からそば粉を触らせてもらえたことは、 ラッキーだったと思います。 |
糸井 | それは嬉しかったですか? |
加藤 | 嬉しかったですね。 でもまだできなかったから、 2年ぐらいはもう悔しさの塊でしたね。 |
糸井 | 2年。 |
加藤 | 全くできないです。 やらせてもらえるけど、できない。 器用な人は1年くらいでできちゃうんですけどね。 毎日、もう何で、何でっていう連続で、 そんなに材料も使えませんから、 まな板の上に新聞紙をのせて おそばの幅に切る練習をしたりとか。 そばの包丁も 持ったことありませんでしたから。 |
糸井 | 2年、ものにならないわ、3人しかいないわ。 |
加藤 | そうです。 |
糸井 | そんな、3人のうち1人が半端な人でも そば屋って回るんですか? |
加藤 | 回っちゃってましたね。 そこは料理はやってなくて、 ほんと、そばだけで。 60席あって、表(接客)は、おかみさん1人と アルバイトさん1人でしたけれど。 |
糸井 | お客は食べてすぐ帰るって感じだね、じゃあ。 |
加藤 | そうですね。 |
糸井 | その店で、 そばだけでお店をやっていくっていうことが どういうことかっていうイメージを、 見たんですね。 |
加藤 | そうですね、けど、こんな大きい店は ぼくには無理だなあと思いましたし、 もっとこじんまりとして 違うことも入れていきたいなっていうことを ずっと考えていましたね。 |
糸井 | その次の店がまたあるんですか? |
加藤 | そうです。 竹やぶの柏本店に行きました。 |
糸井 | いわゆる有名な店ですよね。 |
加藤 | はい。そうしたら、 これまで自分がしてたことと全然違っていて。 もう目から鱗みたいな感じでした。 こーんな世界もあるんだと。 |
糸井 | 面白かったんですね。 何がいちばん違いましたか? |
加藤 | 根本から、もう考え方が。 食べ物を作るということに対する 考え方が全く違います。 |
糸井 | 最初の店は手打ちには違いないけど、 食うっていうことの 「軽さ」がありますよね、きっと、 |
加藤 | はい、そうです。 |
糸井 | 次の店は負けるか勝つかみたいなところが、 ありますよね、きっと。 |
加藤 | そうです、そうです。そんな感じですよ。 |
糸井 | 「竹やぶ」には、 そばが打てる人として、いたわけですか? |
加藤 | 最初の店でやらせてもらってたんで、 かなりスムーズに入れました。 全く知らないで入って来た人は 3年、下仕事やってから 打ち始めるという世界だから、 すごく時間がかかるんですよ。 ぼくはたまたま、 タイミングがよかったんでしょうね。 ほんとにいろんなこと、やらせてもらえたので。 |
糸井 | 高校野球をやってた子が 大学野球で活躍するみたいなことだね。 甲子園には出なくてもね。 |
加藤 | ああ、そうかもしないですね(笑)。 |
おかみさん | なるほど(笑)。 |
糸井 | きっと、全然違うよね。 |
加藤 | ほんとですよ(笑)。 |
糸井 | で、たとえばもう材料から、 打ち方から何から何まで違うんですか? |
加藤 | 全く違いましたね。 |
糸井 | 全くですか。 |
加藤 | 全く。量りもしないですからね。 量ってたら怒られるぐらい、 感覚でいかなくちゃっていう。 |
糸井 | おぉ! |
加藤 | もうそのへんから違います。 |
糸井 | せっかく持ってる技術があっても、 立ち往生しますよね、きっと? |
加藤 | しますよ。 打ってる大きさからしても違いますし、 やり方も違いますし、 全てにおいて違いましたね。 |
糸井 | 怒られたりもするんですか? |
加藤 | ぼくはあんまり怒られなかった方ですけど、 頭をひっぱたかれてる人もいました。 |
糸井 | 何人ぐらいでしたか、調理場は? |
加藤 | 6人ぐらいです。 |
糸井 | 多くはないですね。 繁盛してましたか。 |
加藤 | いや、入った頃はすごい暇でした。 有名になったのは、そのあとなんです。 |
糸井 | 面白いものですね。 |
加藤 | でもまあ、デパートに出店をしてたので、 そういうところに代わる代わる 行かせてもらったりしていました。 |
糸井 | そこでは、経営のことを 勉強する機会はないですよね? どうやって食えてるのかな、 なんていうのは分かんないですね。 |
加藤 | 分からなかったですね。 |
糸井 | 「竹やぶ」には 何年いらっしゃったんですか? |
加藤 | 5年です。 |
糸井 | その5年が、基礎なんだ。 |
加藤 | そうですね、それが基礎ですね。 その後、竹やぶを辞めたころに 「重よし」さんに会ったんです。 |
糸井 | 「重よし」さんは、 原宿にある和食の名店ですね。 あそこのご主人を介して、 ぼくも加藤さんを知ることになったんですが、 加藤さんは、どんなつながりで、 「重よし」さんと知り合ったんですか。 |
加藤 | 「重よし」さんは、たまたま漆屋さんが 竹やぶさんと同じだったんです。 その漆屋さんに連れてってもらって、 お話をいろいろ聞いたんです。 そして、その時、世の中には こんなにすごい人がいるんだって思いました。 感覚が違う、見てる角度が違うって。 |
糸井 | 天才肌だもんね、「重よし」さんはね。 |
加藤 | もう、ほんとに鳥肌ものでした。 それで「お前が一番になりたいんだったら、 俺が料理を教えてやる」って。 それで、ほかの店で仕事をしながら、 「重よし」さんに 料理を習いに行くことになったんです。 「竹やぶ」のあと、 新宿の「吉遊」に勤めるまでに、 半年くらい、何もしていない時期があったんですが、 「重よし」さんに料理を教わりはじめたのは ちょうどその頃なんです。 |
(つづきます) |