気仙沼のまるきでおちつけ。中華そば まるき 熊谷一政さんインタビュー 気仙沼のまるきでおちつけ。中華そば まるき 熊谷一政さんインタビュー
ほぼ日にとっても縁の深い
宮城県気仙沼市のラーメン屋さん
「中華そば まるき」店内の壁には、
ほぼ日の「おちつけ」掛け軸が飾られています。

繁盛店でひたすらラーメンを提供し続ける
じぶんに向けての「おちつけ」。
食欲がそそられる煮干の香りがする店内で、
ラーメンを待っている間に「おちつけ」。
この3年ほどの間、まるきさんのようすを
この掛け軸がいつも見守っていました。

東日本大震災や新型コロナウイルスなど、
先の見えない不安と向き合ってきた大将が
いま考える「おちつけ」のお話。

担当は、ほぼ日の平野です。
(1)おちつける日が、いつか来るはず。
──
お店の閉店後におじゃまさせていただき
ありがとうございます。
まるきさんの壁にはいつも
「おちつけ」の掛軸を飾っていただいているのを
東京から写真で拝見していました。
ご愛用いただき、ありがとうございます。
熊谷
これを見て笑顔になってくれる人とか、
写真を撮っているお客さんも
なかにはいらっしゃいますよ。
──
本当ですか、それはありがたいです。
たくさんのお客さんの目に触れて、
この掛け軸もすっかり馴染んでいるようです。
今回「ほぼ日刊イトイ新聞」の編集部全員で
気仙沼の街をおうかがいすることになって、
まるきさんが「おちつけ」の掛け軸を
飾ってくださっていたのを思い出したんです。
熊谷
ああ、それはそれは。
この掛け軸を飾ろうとしたきっかけは、
「おちつけ」という商品が発売になる時の
作る経緯がおもしろかったんです。
『さんまのまんま』のセットとして
飾られていた言葉が元にあることも、
「おちつけ」なんて言葉を掛け軸にしちゃうことも。
それを読んでいるうちに、単純にほしいなと。
──
あっ、記事を読んでくださったんですか。
ありがとうございました。
熊谷
「おちつけ」という言葉のおもしろさもあるし、
ラーメン屋をやっていると、
営業時間中はずっとバタバタしていて
おちつける時間はあまりないんですよね。
お客さんの目にも入る場所に飾っておいて、
お客さんにも、われわれにも「おちつけ」って。
──
自然と目に入ってくる場所に
飾っていただいていますよね。
熊谷
ラーメン屋さんなのに、
はやる気持ちに「おちつけ」みたいな
メッセージがおもしろいんじゃないかって。
この掛け軸、けっこう見られてますよ。
──
ラーメンができるまで「おちつけ」だと。
熊谷
それから、わたしの母が73歳になるんですけど、
すごく慌てん坊な性格なんですよ。
いまはちょっと療養中ですけど、
いつでも慌てていて、そそっかしいんです。
なので、「おちつけ」の文字を見ながら
仕事してくれたらいいなっていうのが、
いちばんの動機かもしれません。
──
お母さまの慌てん坊な遺伝子、
熊谷さんは受け継いでいないんですか。
熊谷
わたしはあまり慌てないかな。
むしろ、おっとりしているほうだから。
でも、震災のあった2011年からは、
慌てるとかではなく
ずっとモヤモヤしたおちつかなさを
いまだに感じています。
──
11年間、ずっとモヤモヤされているんですね。
不安な気持ちから来るものでしょうか。
熊谷
あの津波で家も流されてしまって、
もとの店(まるき食堂)も
失った状態で過ごしていました。
新しい場所に来て、新しい生活になって、
その変化をいつまで経っても
なかなか受け入れられないんです。
──
慣れ親しんだ場所だっただけに。
熊谷
この11年で自宅を再建できた人なら
おちつけているのかもしれませんが、
うちもまだ、家の再建はできていないんです。
お店もこの場所で10年になりますが、
最初は仮の店としてオープンしたんですよね。
本来の予定では別の場所に
新たに再建するつもりでいたのですが、
仮のまま10年以上ずっとここにいるんです。
震災後の土地の整備がなかなか進まなかったのと、
いざ建てられる土地が手に入っても
店が毎日忙しくて、移転するぞという気持ちには
なかなかもっていくことができないんです。
そういう意味でいまだに、
おちついていない状況が続いています。
──
いい土地さえ見つかったら、
別の場所にお店は移りたいですか。
熊谷
半々ですかね。
新しい場所でお店をやりたい気持ちは常にありますが、
わたしも10年の間に齢も取ってしまったせいか、
「やってもいいのかな」って
躊躇するところもあるんです。
──
新しい挑戦には覚悟も必要ですよね。
熊谷
やりたいって気持ちはあるんですけどね。
でも、お店を建てるということは
またえらい額の借金をすることになるし。
──
2011年まで熊谷さんが
住んでいたエリアはどちらですか。
熊谷
気仙沼の魚市場のすぐ近くでしたね。
そのあたりは今でもまだ家がまばらですし、
街としてまだできあがっていない場所なので
そこに戻れるとしても、
お店を営業するとなるとどうだろうって。
──
現在の魚市場には
東日本大震災の津波被害の水位が
壁に記されていました。
ぼくの身長なんかよりもずっと高い場所まで
津波がきていたと考えると恐ろしくて。
熊谷
当時は3階建ての家に住んでいたんですけど、
2階部分の天井付近まで浸水して‥‥、
いや、浸水どころじゃないぐらい。
壁を突き抜けて、
壁がなくなっちゃいましたから。
幸いにも家が鉄骨だったおかげで、
柱はなんとか持ちこたえてくれました。
あの津波のとき、
我々家族は家の3階にいたんです。
──
逃げられなかったんですか。
熊谷
地震がきて高台にある避難所に避難したのですが、
着替えとかを取りに行こうと戻ったら、
すぐそこまで波が来ているのがわかって。
逃げようと思って玄関を出た時に、
家のすぐ目の前を水が流れていたんです。
道路が川のようになっていたので
あわてて引き返して、3階まで駆け上がったところで
ドドーンと激しい波がぶつかってきました。
周りは全部、流されました。
激震、でした。
地震よりもっと揺れたんです、津波の威力で。
──
かろうじて3階に逃げることができて、
周りの建物が流されていく光景は
窓からご覧になっていたのでしょうか。
熊谷
ちらっとは見たんですけど、
とても見ていられませんでした。
激流が来るので水位の高さが際立ちますが、
周りの家からは煙が立っているんです。
壁や柱が破壊されたことで、
粉塵が立ち込めていたんでしょうね。
家が流れていくのは見えたんですけど
うちの3階の窓のすぐ下に、
他の家の屋根が流れていくのが見えました。
──
衝撃ですね。
熊谷
うちはけっこう頑丈な鉄骨でしたが、
それでもぐにゃっと曲がりましたね。
うちの目の前に
コヤマ菓子店さんの建物があったのですが、
だるま落としのように
1階部分だけが津波で流されて、
もともとうちの向かいにあったのが
右脇の方まで流されていたんです。
そうやって目の前の景色が変わったのにも、
次の日の朝、明るくなってから気づきました。
当時はうちの娘が幼稚園児で、
6歳児にその様子を見せたらきっと
トラウマになってしまうだろうなと思って、
わたしが娘をトイレにかくまって
外が見えないようにしていました。
──
毎日遊んでいた景色が
すべて流されていくようすなんて、
お子さんには辛すぎますね。
熊谷
だからわたしも、
津波の一部始終は見られていないんです。
父や母は窓から眺めることもあったそうですが、
怖くてずっとは観ていられなかったようです。
──
ご自宅で津波に耐えて、
流れが収まってから
外に出ようと思えるんですか。
熊谷
第一波はわりと早くに引いたんですけど、
そのとき1階の部分には
お腹ぐらいまでの高さの水が残っていました。
少しずつ水が引いたかと思えば、
30分もしないうちにまた大波が来たんです。
津波が来る間隔は、
はじめが30分、そこから1時間‥‥、
とだんだん間隔が開いていって、
やっと津波がおさまったのは翌朝の5時くらい。
避難できるぐらいまで水位が下がったのは
次の日の午前9時くらいでした。
妻は気仙沼の安波山に避難して、
連絡しあって互いの安否は確認できたものの、
合流できるまでにも時間がかかりましたね。
──
熊谷さんは港町で生まれ育っているから、
津波がいつか来るかもしれないと
意識はされていたんですか。
熊谷
いえ、ぼくはそれほどでも。
うちの母は昭和35年のチリ地震津波を経験して、
津波に対する意識はあったようですが。
とはいえ東日本大震災クラスの災害は
誰も経験したことがなかったので
「まさか」という感じではありました。
(つづきます)
2022-03-12-SAT
ほぼ日の「おちつけ」
気仙沼観光はじめてガイド
ほぼ日編集部 いま、気仙沼にいます。