糸井 芸術系の学生を相手に
太郎さんが講演したときの
エピソードがありますよね。
平野 はい、はい。
糸井 たしか
「先生がおっしゃることは
 よくわかるんですけど、それじゃあ、
 芸術じゃメシが食えないじゃないですか」
というような質問を受けたんですよね。
平野 そうです。
糸井 ぼくはこれを敏子さんに
教えてもらったんだけど、
「そうか、君は食えないのか」
と応えたらしいんですよ。
「よしわかった、俺んちに食いに来い」
と言った(笑)。

相手は「芸術では食えない」という
話をしているのに、
家に呼んでカレーライスをごちそうした。
「どうだ、食えるだろう」ってね。
「食える」という言葉は、
岡本太郎の中では、それなんですよ。

いまぼくは、震災で被災した地域に
たびたび行って、
ごちそうになったりしているんです。
そこで彼らがふるまってくれるのは、
太郎さんの「カレーライス」なんですよ。
平野 ああ、なるほど。
糸井 東京で「食えなくなる」とか「食える」とか
言ってるのとは、違う話なんです。
平野 でも、敏子が言ってましたけど、
そのとき実は太郎も
全然金がなかったらしいですよ。
糸井 らしいね(笑)。
平野 「ついに、ついに今日で終わりだ」
という日が来て‥‥。
糸井 (笑)
平野 で、敏子が家中の小銭をかき集めて、
お手伝いさんに持たせたらしいんですよ。
鮭かなんか買ってくるんだろうと思って
待っていたら、
バラの花束を抱えて帰ってきた。
「どうせ今日で終わりなんですから、
 最後くらいは
 きれいな花を見て過ごしましょう」
って。
これにはさすがの太郎も
絶句したらしいです(笑)。
ちょうどそのとき、たまたま
新聞の挿絵の仕事かなにかが入ってきて、
なんとか食いつなぐことができた。
学生にカレーを食わせたというのは
その頃のことらしいですよ。
糸井 うーん‥‥根源のところで
ふれあうようなときに
岡本太郎さんの話を聞くと
やっぱり勇気が出ます。
あの人はいい意味で
やせ我慢した人だと思うんですよ。
平野 そうですよね、
ほんとにそうだな。
糸井 腹が減ったという現実はあるわけだし、
明日のお金すらないという現実を
ぜんぜんわかんない人じゃないはずです。

そのときに、
どっちの態度を取るかを
彼はいつも自分で決められる場所に
いたんです。
ぼくは震災後、よく
「自分のリーダーは自分である」と
よく言うようになりました。

つまり、
太郎が太郎であり続けるのは、
太郎が決められることなんですね。
平野 はい。
糸井 「ここはかっこいい岡本太郎でいたい」
と思ったら、そっちを選ぶ。
その自由さを
岡本太郎はやってたぞ、と思います。
平野 やっぱり両親の存在が
大きかったのかもしれませんね。
高貴な家柄とはいえないけれど、
一平がブレイクしてからは、
家族で洋行できるくらい金はあった。
太郎はおぼっちゃんなんですよ。
少なくとも大根飯を食って育ったわけじゃない。

パリ時代の学歴にしても、
キャリアにしても、
文句なしのエリートです。

糸井さんがさっきおっしゃってたように、
太郎はいったん「山」を見た人ですよね。
けっして大衆ではない。
「岡本太郎は、自分が
 大衆ではないということに
 コンプレックスを抱かない
 希有な日本人だった。
 彼はそこから逃げなかった」
と敏子がよく言ってましたけど、
それは本人も自覚していたと思います。
糸井 そうかぁ。
平野 けっきょく太郎の行動原理の根幹は
ノブレス・オブリージュだったと
思うんですよ。
自分が腹へっても、まずは庶民を喰わせる。
戦争がはじまれば
真っ先に戦場に駆けつけて、死ぬ。
糸井 それがつまり、
リーダーシップってやつなのかな?
平野 そう思います。
人の先頭に立つ、というのはそういうことだし、
自分のリーダーは自分、というのも、
まさにそう。
そして、それこそが
「Be TARO」なのかもしれません。
糸井 そうか‥‥。
東北でぼくがいまお会いしている人たちは
小さな企業であっても、みんな社長なんです。
だからできる、ということがあるんですね。
みんな、ごくっと息をのんでやっている。
そういうことに気づけたのが
岡本太郎100歳の年というのもすごいと思います。
ぼくらは今年だからこそ
発見できるものがあったわけです。
まさに「災いがあってこそ」。

岡本太郎なら、
「災いがあってこそ」というところを
受け止めてくれると思います。
やっぱり『明日の神話』を描いた人ですからね。
平野 うん。まさしくそうですね。
糸井 原爆という鬼の元のようなものを
ひっくり返して絵にした人だから。
(つづきます)
2011-12-30-FRI
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