ご無沙汰しています。
NYから帰国しました。
ようやく生活も慣れてきたところで
「ぼくは見ておこう」を再開しますね。
お時間のある方は再びおつきあいください。
再開第1回は、9・11同時テロで人生が変わった
ひとりのジャーナリストの物語です。


あるジャーナリストの死

このコラムが掲載されるのは
アメリカの新しい大統領が決まる頃だろう。
今回の大統領選は、アメリカにとって
かつてないほど大きな意味を持つ。
もし黒人初の大統領が誕生すれば
言うまでもなく新しい歴史の1ページが
開かれることになる。
ただ、どちらがなろうとも
世界が期待することはさほど変わらない。
9・11同時多発テロの後遺症に揺れ続けた超大国に
深呼吸させ、自分の立ち位置を再確認させることが
最も大事な仕事のひとつになるだろう。
あの日から7年、
失われなくてもいいはずの命が奪われ、
多くの人生が変更を余儀なくされた。
ひとりのジャーナリストの死をめぐる物語は
今なお私の心の中に生き続けている。

2005年8月、アメリカのメディアは
人気キャスターの死をいっせいに報じた。
アメリカ3大ネットワークのひとつ、
ABCテレビの夕方ニュースのメインキャスターを
22年間にわたってつとめた、
ピーター・ジェニングス氏だ。
彼は、肺がんで67歳の人生の幕を閉じた。
ニューヨークのマディソン・スクエアガーデンで
開かれた追悼集会には2千人が参列、
都会的で洒脱なジェニングス氏のために
ジャズの演奏が繰り広げられ、
会場の外では一般市民が
お茶の間で慣れ親しんだキャスターの死を悼んだ。

2001年9月11日の同時多発テロは
ジェニングス氏の人生を大きく変えた。
その日、アメリカのテレビは特別番組を編成し、
世界を揺るがしたテロの模様を生中継で伝え続け、
ジェニングス氏も15時間連続で
カメラの前に立つことになった。

私も発生から4日後、再開第一便に乗って
成田空港からニューヨークに飛んだ。
現場の惨状や、
現場に漂う鼻をつく臭いもさることながら、
驚いたのはアメリカを覆う熱狂とも言える空気だった。
テレビの特別番組には
「アメリカは団結する」「立ち上がるアメリカ」といった
勇ましいロゴが並び、
キャスターたちは愛国心に訴える発言を繰り返していた。
CBSテレビのキャスターであるダン・ラザー氏は
トーク番組の中で
「ジョージ・ブッシュが大統領だ。決めるのは彼だ。
 彼の命令なら私はどこへでも行く」
と語り、高揚した表情を見せた。

私がダン・ラザー氏にニューススタジオで
インタビューした際にも
巨大なアメリカの国旗が目に入った。
国旗をめぐる歴史が大きく異なるとは言え、
ニュースのスタジオに国旗を掲げるという感覚は
少なくとも日本のメディアにはないだろう。
普段はコスモポリタンな雰囲気の
ニューヨークの街をも、星条旗が覆い尽くしていた。

そんな中で、ジェニングス氏は
思わぬ批判を浴びることになる。
ジェングス氏はテロが起きた11日の午後、
大統領がルイジアナの空軍基地に避難したことに触れ
「このようなときに国民は、
 大統領の姿を見て安心するものだ。
 それをうまく果たす大統領もいるが、
 そうでない大統領もいる」
とコメントした。
この発言は大統領批判と受けとられ
その日だけで1万件を越す抗議電話が殺到したという。

さらにジェニングス氏は
テロから2日後、スタジオに
パレスチナのスポークスマンをゲストとして迎え、
「なぜアメリカはこれほど憎まれるのか」
という問いを発した。
ジャーナリストとして、
しごくまっとうに思えるこの質問も
全米に星条旗がはためく中では、
「ジェニングス氏最悪の日」(ワシントンポスト紙)、
「ジェニングス氏はアラブ寄り」(ニューヨークポスト紙)
といった拒絶反応を引き起こすばかりだった。

沈黙を守っていた
ジェイングス氏の妻のケイスさんが
その後、当時の様子を初めて語ってくれた。
彼女はABCニュースの元プロデューサーで、
インタビューの場所は
ニューヨーク郊外のジェニングス氏の別荘だった。
白いパンツに鮮やかなオレンジの上着で
迎えてくれたケイスさんは
ジェニングス氏の写真が並ぶ居間を案内してくれた後、
静かに語り始めた。
「彼はそんなふうに批判されることに
がっかりしていました。
自分が言ったことをきちんと聞いていれば、
その批判が間違っていることがわかるのにと
感じていました」
同時に、ジェニングス氏は、
9・11がもたらしたアメリカ社会の変化に
疑問を感じていたという。
「アメリカ人が自分の殻に閉じこもって
 外の国々のことも、自分たちの内面をも
 見ようとしなくなったことに、
 彼は時に当惑していました」

ジェニングス氏の経歴も
「アラブ寄り」という批判につながった。
アメリカのテレビ記者のエリートの多くは
地方局で頭角を現して
全国ネットワークに引き抜かれ
ホワイトハウス詰めを経験する。
テレビで時折見かける会見の中で、
大統領からファーストネームで呼ばれる記者たちだ。
ジェニングス氏も
ホワイトハウスは担当したものの、
その前に
アメリカのテレビとしては初めての中東支局で
特派員を6年つとめるなど
外からアメリカを見続けてきた。
おうおうにして内側からしか自分の国を見ない、
アメリカのメディアエリートたちの中では
少数派と言ってもいい経歴を持つ記者だった。

さらにジェニングス氏がアメリカ人でないことが
批判に拍車をかけることになった。
彼はカナダ人だったのだ。
ABCで長年ジェニングス氏と仕事をした
「ワールド・ニュース・トゥナイト」の元編集長の
ポール・フリードマン氏はこう語る。
「彼はアメリカ市民でもないのに、と
 何年も批判されてきました。市民でもないのに
 なぜアメリカについてあんなふうに言えるんだと」

ジェニングス氏への批判が高まる中、
視聴率にも影響が出始める。
愛国的な報道を前面に押し出した
FOXテレビが数字を伸ばす一方で
ジェニングス氏のニュース番組の視聴率は
下がり始めたのだ。
この頃、ジェニングス氏は、
20年やめていたタバコを再び吸いはじめる。
妻のケイスさんは言う。
「彼は9・11の前に吸い始めていました。
 しかしすぐにまた止めるはずでした。
 そして9・11が起きた。
 もう私がやめるよう言える雰囲気ではなくなりました」
またABCの同僚のフリードマン氏は
「彼はストレスを緩和するために
 タバコを吸っていました。9・11はあきらかに
 ものすごいストレスの日々でした」
とジェニングス氏の置かれた状況を語った。

愛国的な熱狂とでもいうべき雰囲気がアメリカを覆う中、
イラク戦争でも
ジェニングス氏は抑制した報道につとめた。
フセイン像が倒された映像が飛び込んできた、
バグダッド「陥落」の日、ジェニングス氏は
「アメリカ軍を解放者として歓迎する人も多いだろうが、
 アメリカ軍の駐留と混乱に
 不安をおぼえる人々も多いでしょう」
というコメントで、
自らのニュース番組をスタートさせた。
保守系メディア監視機関である
「メディア・リサーチセンター」が
イラク戦争報道についてまとめた報告書では、
FOXテレビを最高にランクする一方で
ABCを最下位にランクし、
「いつも反戦的なピーター・ジェニングス氏を筆頭に、
 ABCはこの戦争をもっとも懐疑的、悲観的に伝えた」
と結論づけた。

イラク戦争が始まって4ヶ月後、
ジェニングス氏は人生を変える、ひとつの選択をする。
カナダ人であることにこだわってきた彼が
アメリカ市民権を取ったことを発表したのだ。
ABCテレビに入って40年、
「アメリカのニュース番組のキャスターを
 なぜカナダ人がやっているんだ」
という批判を受けながらも、
決してとろうとしなかったアメリカの市民権を
なぜ突然とったのだろうか。
妻のケイスさんは、夫であるジェニングス氏が
市民権取得の手続きを始めたことすら
当時は知らなかったという。
「彼がどんな思いで決めたのか
 はっきりとわかりません。言えるのは、
 彼自身の個人的な思いから選んだことなのです。
 ただ、最初に市民権の取得を申し込んだのが
 9・11の後であることは間違いありません」

ジェニングス氏は、9・11の前から
アメリカの歴史をひも解く番組に好んで参加したほか、
歴史の本を出版する仕事にも積極的に関わっていた。
アメリカの歴史の本を一緒に出版した、
友人のトッド・ブルースター氏は言う。
「アイデンティティーの問題で言うと
 ジェニングス氏はふたつの国の狭間で
 確かに揺れていたと思います。
 彼は、カナダもアメリカも愛していました」

2003年5月、市民権を取得、
ジェニングス氏が、右手を上げて、
宣誓している写真が残っている。
別の写真では、彼は市民権の証書を手に
穏やかな笑みを浮かべていた。
ジェニングス氏は
市民権をとったことをすぐには公表せず、
7月4日のアメリカ独立記念日にあわせて発表、
周囲をあっと驚かせた。
彼はその後の、あるスピーチでこう語っている。
「友人が私に訊きます。なぜ今なのかと。
 カナダは魂に刻み込まれ、アメリカは今の故郷です。
 9・11の経験が私に深く影響を与えたのは
 間違いありません」

ジェニングス氏は
2004年の大統領選で、初めて投票、
市民であることを楽しんでいるように見えた。
しかしそれも長くは続かなかった。
彼は病魔に襲われていることを
自らの番組で告白することになる。
「つい先日、私は肺がんにかかっていることを
 知りました。
 タバコは20年前吸っていましたが、
 9・11のころ意思が弱くなり、
 また吸ってしまいました」
それからわずか4ヶ月後、
ジェニングス氏は息を引き取る。
アメリカ市民でいられたのは、わずか2年あまりだった。

歴史の本をともに出版したブルースター氏を
取材したときのことだ。
彼の自宅を訪れた私は、ジェニングス氏の遺品を
偶然、見せてもらうことになった。
形見分けとして親友の元に届いたばかりの品だった。
それはアメリカの独立宣言と憲法が書かれた薄い小冊子で
赤い表紙の上には小さな文字で
「ジェニングス」と記されていた。
ジェニングス氏はこの冊子を
いつもおしりのポケットに入れて持ち歩いていたという。
長い間使っていたのだろう、
開くと、背中の部分がほつれ、
バラバラになるほど古いものだった。
ゆっくりとページをめくっていた私は
吸い寄せられるように、ある箇所に目をとめた。
アメリカ独立記念日の年である『1776』という数字に
黄色のラインマーカーがひかれていたのだ。
アメリカ人なら独立の年に
果たしてラインマーカーをひくだろうか。
子供にとってすら常識とも言える数字に
ラインマーカーをひくことなど
ありはしないのではないだろうか。
私は胸が詰まる思いがした。
そして、黄色に覆われた数字から
しばらく目を離すことができなかった。

アメリカはイラク戦争の熱狂から覚め、
自らが犯した過ちに直面している。
孤独な超大国を内部から報道してきた
アメリカメディアも自らのありようを問い続けている。
『アメリカン・ジャーナリズム・レビュー』の
レム・ライダー編集長は語る。
「体を国旗でくるむのは簡単です。
しかもショッキングな出来事が起き、
国民が強く支持を与えた大統領の前で
萎縮しないでいるのは難しいことです。
覚えておかなくてはならないのは、
たとえ視聴者に支持されなくても、
メディアは懐疑的な姿勢を保ち、
積極的にリポートをし、すべてを疑うのです」

生前、ジェニングス氏は
こんな言葉を残していた。
「中東に長く住んで学んだことは、
すべての人にとって絶対的な真実は
ないということです。
だからコインを見るときには、
いつも本能的にもう一方の側も見たくなるのです」

ジェニングス氏が亡くなって3年、
アメリカは今、新しい歩みを始めようとしている。
(終わり)

2008-11-04-TUE
松原耕二さんの「ぼくは見ておこう」は
月に1回、掲載の予定です。
次回の掲載は12月上旬を予定しています。
どうぞ、おたのしみに。
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