あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
今月20日にはオバマ氏が
アメリカの大統領に就任します。
『すばる』2月号(集英社・1月6日発売)に
「ブッシュの言葉、オバマの言葉」というタイトルで
ふたりが使う言葉について書いています。
もし機会があれば読んでみてくださいね。

さあ、2009年、
あなたはどんな年にしたいと願うでしょうか。
今年最初のコラムは
人の“思い”がいかに世界を変えうるか、
そして
“楽しむ”ことがどれだけ人を遠くまで行かせるか、
それがテーマです。
少々長いので2回に分けて連載しますね。



世界を変えたオーケストラ [1]

私のさほど豊かとは言えない音楽体験の中で、
これほど驚かされた指揮者は記憶にない。
そして同時に、指揮者によって
オーケストラの演奏が変わるという、
ごく当たり前のことをこれほど実感した経験もなかった。

初めてグスターボ・ドゥダメル氏の演奏を聴いたのは、
2007年の12月のことだった。
彼がニューヨーク・フィルで初めてタクトを振ったのだ。
クラシックの本場でもない南米ベネズエラから来た、
当時まだ26歳の指揮者が、長い伝統を持つ
ニューヨーク・フィルを指揮するのは異例とも言えた。

話題はそればかりではなかった。
ドゥダメル氏はその2週間ほど前に、
カーネギー・ホールで
ベネズエラの若手オーケストラを指揮、
ニューヨーク・デビューとなったその演奏で、
すでに成功をおさめていた。
さかのぼって4月には、
名門ロサンゼルス・フィルの音楽監督に
2009年から就任することが発表されていた。
前任者であるエサ=ペッカ・サロネン氏が
その時点で48歳、ドゥダメル氏の就任が
異例の若さでの抜擢であることがわかるだろう。

さらにベルリン・フィルの首席指揮者であり、
芸術監督でもあるサイモン・ラトル氏が
「これまで出会った中で、最も才能あふれる指揮者」
と語るなど評価も高まるばかりで、
ドゥダメル氏の登場は少なくとも
クラシック界の“事件”であることは間違いなかった。
その彼がニューヨーク・フィルを指揮するのだ。
新しいもの好きのニューヨーカーたちが
話題にしないわけがなかった。
新聞はこぞって特集記事を組み、
“神童”の秘密を探ろうとした。

公演当日、ニューヨーク・フィルの本拠地である
エイブリー・フィッシャー・ホールには、
大勢の音楽ファンたちが集まった。
ニューヨーク・フィルの代表的な指揮者で、
アメリカが世界に誇るレナード・バーンスタインも
活躍したこのホールは、
市民にとって特別な場所のひとつだった。
その会場で、また新しい歴史のページが開かれるのだ。
バーンスタインを自分の目で観たであろう老夫婦から、
ドゥダメル氏と同じくらいの世代の若者まで、
幅広い層が席を埋め尽くした。

コンサートマスターが姿を見せる。
ドゥダメル氏の登場が近いことを予感して、
大きな拍手が起きる。
オーケストラの団員たちが楽器の音あわせを済ませると、
再び静寂があたりを支配した。
その時だった。
舞台のそでから小柄な青年が足早に姿を見せた。
大きな拍手が会場を包む。
細身の体だからか、
チリチリのヘアーが歩いているようだ。
ドゥダメル氏は観客に向かって会釈をすると、
オーケストラのほうを向いて、
おもむろにタクトを動かした。

最初の曲は、メキシコの作曲家、カルロス・チャベスの
交響曲第2番『シンフォニア・インディア』だった。
祭りを思わせるにぎやかなメロディーで始まり、
静かな音色へと続く。この交響曲には
メキシコに住むインディオの旋律が
生かされているという。
中南米特有の哀しみが漂うかと思うと、
これぞ南米といった大騒ぎ、
めまぐるしく拍子が変わり、
速いテンポで観客を巻き込んでいく。

間近で観るドゥダメル氏は、
何よりエネルギッシュだった。
小柄な体が指揮台の上で激しく動く。
時に大きく伸び上がり、
両手を広げてタクトを天に掲げる。
チリチリヘアーが激しく揺れる。
まるでダンスを見ているようだ。
ニューヨーク・フィルの演奏家たちも、
南米から来たこの若者の動きに
精一杯ついていこうとしていた。

私は、つまらないことを面白がっていた。
作曲家の名前が、チャベスだったからだ。
ベネズエラとチャベスという組み合わせは、
アメリカ人に容易にウゴ・チャベス大統領を
連想させるように思えた。
ベネズエラのチャベス大統領は反アメリカの急先鋒で、
キューバのカストロ議長と一緒に
アメリカ批判を繰り返していた。
よりによって国連総会の場で
ブッシュ大統領を「悪魔」とののしって、
アメリカメディアの格好のネタになっていた。

南米の反アメリカの拠点とも言える
ベネズエラから来た指揮者が、
ニューヨーク・フィルデビューの最初の曲に
“チャベス”を選ぶ。
観客がそこに意味を感じ取っても不思議ではなかったが、
周りを見回すと、みなそんなことおかまいなしだった。
体を揺らし、食い入るように
ドゥダメル氏の動きを追っていた。
ここはニューヨークだからなのか、
これがアメリカの懐の深さなのかよくわからなかったが、
ニューヨーク市民はドゥダメル氏を受け入れ、
彼のつむぎだす音楽を楽しんでいた。

激しいテンポのクライマックスを迎えたあと、
ドゥダメル氏がタクトを大きく振り下ろして
最初の曲を終えた。大きな拍手が沸き起こる。
観客が次々と立ち上がってドゥダメル氏を祝福した。

この曲を最後にニューヨーク・フィルが演奏したのは、
1961年のことだった。
その時の指揮者はバーンスタイン、
46年ぶりの演奏を、
時に「その登場はバーンスタイン以来の“事件”」とも
言われる青年が指揮したのだ。
ドゥダメル氏は人懐っこい笑顔を浮かべ、
オーケストラをたたえる仕草を繰り返した。

ラテンの曲は最初だけで、
続いてはドボルザークのバイオリン協奏曲、
さらに休憩を挟んで後半は、
ロシアの作曲家・プロコフィエフの
交響曲第5番をじっくりと聴かせた。

最も印象に残ったのは、
音楽を思い切り楽しんでいることが
ストレートに伝わる、彼のスタイルだった。
内面から湧き出てくるような情熱は、
後姿からも充分に伝わってくるほどだった。

すべての演奏が終わり、
観客のスタンディング・オベーションが続く。
ドゥダメル氏はオーケストラの間を
すばやく動き回っては、
ラテン系の明るさで演奏者を称えていく。
彼の倍の年齢はありそうなベテランたちが、
苦笑いして立ち上がってはそれに答えた。

この“若き天才”を生んだのは、
ひとりの男性の強い思いだった。
ホセ・アントニオ・アブレウ博士は、
1939年にベネズエラで生まれた。
音楽家であり、経済学の教授であり、
国会議員でもあった彼は、
後に『エル・システマ』と呼ばれるプロジェクトを、
1975年にスタートさせる。

貧困層の子供たちから希望者を募り、
無料で楽器を渡して、演奏を教えた。
最初は、首都カラカスのガレージに
11人の子供が集まった。
次の募集で40人が集まり、
3回目には75人が集まった。
そして1年後には、ベネズエラで最初の
ユース・オーケストラが出来あがっていた。 

日本の国際交流基金の招きで、
今年3月に来日したアブレウ博士は、トークセッションで
このプロジェクトを始めた動機を語っている。

「マザー・テレサがしばしば言われていたことですが、
 貧困の中で一番心が痛み悲しいのは、
 住居や食料がないことより、社会の中で
 自分の存在が認められないということです。
 貧しい子供は、芸術家になるための適切な方法に
 アクセスできないと思ったんです」

アブレウ博士は、一部のエリートだけが
享受していた音楽教育を、広く開放していった。
まず中央で児童・青少年に音楽を教え、
その子供たちが大きくなって教師になり、
地方でまた次の世代の子供たちに教えていく。
プロジェクトは全国に広がり、現在、
児童・青少年25万以上がこのシステムに参加、
これまで33年間であわせて100万人が音楽を学んだ。
参加した75%が貧困層の子供たちだという。
この試みは貧しい子供たちを、
麻薬や犯罪から守っただけではなかった。
そこから世界的なレベルを持った音楽家が
誕生することになったのだ。

グスタブ・ドゥダメル氏も、
この音楽教育システムで育ったひとりだ。
彼は1981年1月に、ベネズエラの中西部にある
バリキシメトで生まれ、
6歳からこのシステムに参加する。
父親はサルサバンドで
トロンボーンを演奏していたという。

ドゥダメル氏は
アメリカCBSテレビの報道番組、
『60ミニッツ』のインタビューで、こう語っている。

「もちろんトロンボーンを演奏しようと思いました。
 でも私の腕はトロンボーンには短すぎたんです。
 とても悲しかったけど、その代わりに、
 バイオリンを学び始めました」

その後、ドゥダメル氏は12歳からタクトを振り始め、
15歳の時から本格的な指揮のレッスンを受けた。
そして18歳で、全国に200とも言われる
青少年オーケストラの最高峰、
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの
音楽監督に就任する。

「音楽は私を救ってくれました。これは確かです。
 私の周りにも犯罪や麻薬がはびこっていました。
 音楽がそうしたことから、私を遠ざけてくれたんです」

その後ドゥダメル氏は、2004年に
ドイツのマーラ国際指揮コンクールで優勝して
脚光を浴び、
世界の超一流オーケストラに次々と招かれて演奏する。
ローマ教皇の80歳を記念する公演では
ドボルザークの『新世界より』を指揮、
その様子はヨーロッパ中に生中継された。
2007年には、
スウェーデンのエーテボリ交響楽団の首席指揮者に就任、
そして名門ロサンゼルス・フィルハーモニックの
音楽監督に指名されるなど、
出世の階段を上り続けている。

アブレウ博士は、
孫ほどの年齢のドゥダメル氏についてこう語る。

「彼はこの音楽教育制度の芸術的なレベルが
 どのくらいのものかを示してくれた証人です。
 彼自身は裕福ではない家庭の出身ですが、
 ベネズエラ青年の能力を
 世界的なレベルにまで伸ばした力が、
 この音楽教育にあるのだということを
 示してくれました」

ドゥダメル氏と
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラは先月、
初めてのアジア・ツアーを行った。
その最初の公演が日本だった。
ニューヨークで充分に驚かされていた私は、
売り出し時間が始まるのと同時に電話して、
何とかチケットを手に入れた。
ドゥダメル氏が育った、
ベネズエラ最高峰のユース・オーケストラが
どんな演奏をするのか、
どうしても見ておきたかったのだ。

(続く)

2009-01-01-THU
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