横尾 |
ぼくは、やっぱりアートは、
生理じゃなければだめだと思う。 |
糸井 |
そんな横尾さんですけど、
美術界では、生理的じゃない人に
囲まれて生きてきたわけじゃないですか……。 |
横尾 |
うん、その人たちは、
「美術の制度特有のボキャブラリー」
というか、それ用の論理を使うわけ。 |
糸井 |
みなさん、いっぱい、しゃべりますよね。 |
横尾 |
うん。
ぼくの作品についても、
彼らの論理でしゃべろうとするわけです。
でも本来は、たとえばリンゴを食って
うまかったというのは、生理じゃないですか。
感情でも知性でもなんでもないよね。
だけど評論家は、
そのリンゴのうまさの説明を、
言葉でするわけでしょう?
できるはずがないもんね。
何かのような味がするとか、
比喩的になら言えるかもわかんないけれど。
前に、立川談志と対談したんです。
対談する前は、
普通の話をしているんです。
恥ずかしそうに下向いて
ボソボソって言ってるわけ。
だけど彼は、ステージに上がったとたんに、
もう芸人になっちゃうわけ。
彼にとって、言葉は芸なんですよね。
芸だから、いくら辛辣な批判的を言っても、
大して影響ないんですよ。
笑われて一巻の終わりですね。
あれが芸じゃなければ、そうとう
命も危ないだろうというようなことを
平気で言っちゃうわけでしょう?
あれを芸にしちゃうっていうところが、
彼の創造なんだろうけれども。
ぼくなんかにしても、
こういう作品を作ることは
どんな仕事なのかというと、
やっぱり芸の一種なのかな、
という気もするんです。
どちらにしても、芸術と生活とは、
もう完全に分けちゃうほうがいいと思う。
いっしょくたにしちゃうと、やばいですよ。 |
糸井 |
おかしくなりますよね。 |
横尾 |
うん、おかしくなる。 |
糸井 |
小学生が
犯罪を犯したなんていう話って、
「いろんなものを、
いっしょくたにしてしまった」
ということが多いですよね。
子どもは子どもなりに
創作者としての力量を持っているけど、
頭で作ったものと現実との間で
コントロールができなくて、
混乱しちゃうんでしょうね。 |
横尾 |
子どももそうだけども、
最近のいろんな事件って、
たいてい、現実と非現実が
ひとつになっちゃってるじゃないですか。
だから文化だって、そういうところに
危険があるんじゃないですか。 |
糸井 |
そうですね。 |
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(つづきます) |