第3回
そばを迎え撃て
|
糸井 |
実はさっき里見さんがおっしゃった
「長い」ということに、
僕はまだ引きずられてるんですよ。
あまりにインパクトがあったもので。
お宅でも、食卓には長いものばかり並ぶんですか。 |
里見 |
うちにいる限り、主食は麺です。
つけ合わせの野菜が
カンピョウやアスパラ、ソウメン・カボチャ、
漬け物が名古屋の守口大根とくれば言うことなし。 |
糸井 |
長いものって、吸い込む必要があるでしょう。
とくに日本の食い方だと。
あれで捕食行動をアクティブにするって感じ、
ありますね。
内臓的には肺まで動かすわけだし、
捕食の力強さを自分の中に呼び起こすというか。 |
里見 |
命の雄叫びというか。(笑) |
山口 |
舌ではなくて喉の楽しみ。
嚥下する楽しみですね。 |
里見 |
ヨーロッパの人に言わせると、
日本人がそばをすする姿は、
吸ってんだか吐いてるんだかわからないって。
彼らはなんで音をたててすすらないんですかね。 |
糸井 |
ズルズルはソーシャルじゃないと。 |
山口 |
スパゲッティなんか、せっかく長いものを
わざわざフォークで巻き取っちゃうんだから、
連中はバカじゃないですか(笑)。
逆に日本人は、そばの端のほうを
つまんで口に入れて、できるだけ長くして食う。 |
糸井 |
バッターが、速い球のピッチャーに会いたいっ、
思いきりスイングしたいというような、
武者な感じがしますねぇ。 |
山口 |
六尺のそばを一気にすする極意。 |
里見 |
何だか、宮本武蔵の
『五輪書』でも読んでる気分になってきたぞ。(笑) |
山口 |
そばがきがうまくないのは、長くないからですね。
そばと同じなのに。 |
糸井 |
だから食い物は、味というよりは
食感にかなりひかれるのかもしれない。 |
里見 |
そう、食感ですね。 |
山口 |
中国なんか、味だけでなく
食感にもいろいろな字を当てるでしょう。
たとえば英語で言うクリスピーな食感に、
中国人は「脆い」という字を当てる。
ローストした薄い子豚の皮が、
口の中でホロホロと脆く崩れる感じね。 |
糸井 |
その「脆」の一字を見ただけで、
僕は豚の皮への憧れが生まれますよ。 |
里見 |
「脆」という語をうまさの一つの共通語に仕立てるのには、
中国何千年の歴史があった……。
日本には味の差異を表わす形容詞が
極端に少ないですね。 |
糸井 |
結局、「おいしい」になるんですよ。
ただ僕は、「脆」の表現にひかれる部分もあるけど、
「おいしい」の強弱とかニュアンスで
伝わるものもあると思う。
「おいしい」が詩だとすれば、
曲をつけることで成り立つ表現。
それは信じられる気がするな。
それを、「まったりとして、それでいて……」
とやられると、なんか別のものになっちゃう。 |
里見 |
だいたい「まったり」って何ですか。
テレビの食い物番組見ていても、
「まったり」ばかりで、
それ聞くと逆に食いたくなくなる。
せめて、他人が使った表現を
絶対に真似しないという雄々しさがほしい。 |
糸井 |
「よかった」という感想でもまったくかまわないわけで、
それを素直に提示できなくなっているのは、
自分の社会的価値を守るためだけじゃないですか。 |
里見 |
うちの庭に来るヒヨドリが、
餌カゴのオレンジをついばんだり、
水を飲んだりする姿が実においしそうなのね。
それ見てて、結局、うまいまずいは
その表情にあるのではないかと思いました。 |
山口 |
"グルメ"という考え方は、まったくその逆なんですね。
言葉で伝達可能な感覚だけで成り立たせた世界なんです。
金さえ出せば、
誰でもまったりしたフォアグラが食べられて、
まったり感を味わえる世界……。 |