第5回 家を持つ人、持たない人
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糸井 |
こうして家について、僕はこんなに面白がって
話をしていて、俯瞰図としては興味あるのに、
やっぱり家はいらないというのは相変わらずなんですね。
カミさんなんか、家賃払うのもったいない
と思っているようだけど。
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隈 |
僕も家はいらないですね。正直言うと、
家を建てる人の気持ちもよくわかんない。(笑)
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服部 |
じゃたとえば、死ぬときはどうなるんでしょう。
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糸井 |
僕は道で死んでもかまわない。
ヤケになってるんじゃなくて、小さいときから
「アイ・ドント・ケア」な人生なんです。
ただ、誰も見ていない場所が欲しいというのはありますね。
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服部 |
猫みたい。隈さんもそうですか?
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隈 |
僕は人の建物をつくっているから、
こういう空間をつくりたいと思ったら、
人の金でつくらせてもらうことで、
自分の欲望を解消できます。
だから、ますます自分の空間を持ちたいという欲望から
遠ざかっちゃう。僕も猫に近いですね。
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糸井 |
一人、友達がいてよかった(笑)。
僕は喫茶店に暮らしていても構わない。
家という高い買い物をしなければ、
毎日、いくばくかの小銭が自由になって、
娘に小遣い二千円くらいあげることはできる。
そのまま一生を送りたいんですよ。
だけど家買っちゃったら、それ、できないんですね。
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隈 |
そういうふうに思う人もいるけど、
世の中の家のつくり方は、所有の願望を
エンジンにしてますからね。
「家をもったら一生、楽できまっせ」みたいな。
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糸井 |
家を買うのが人生の双六(すごろく)の
四分の三くらいのところにあって、
それがないと一人前じゃないみたいに語られてね。
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隈 |
僕はいずれ「家」は施設化するんじゃないか
と思っています。単に空間があるだけじゃなく、
サービスもついているという。
それが介護サービスか子供を育てるサービスか
わからないけど、そういうものを含めての施設に
変わっていくだろうという予感があります。
だって、すでに家族の形態は変わっていますよ。
家という器がそれについていっていないだけでね。
二十世紀の家は個人の所有の対象で、
サービスも全部自分でやるというのが基本です。
でも、それ以前の都市生活は私有なんて概念はないし、
サービスは町中で助け合うという形で存在していました。
で、もう一度、サービスつきの施設という形に
解体していくんじゃないかな。
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糸井 |
僕は半年前に事務所を引っ越したんですね。
お金のある人が自宅として建てた家を借りているんです。
それで気づいたんですけど、
そういう民家で仕事をしていると、“ウェルカム“
という気持ちが強くなるんです。
人がよく集まるし、このあいだも娘が文化祭の準備で
友達何人かを連れてきて寝泊まりしてました。
家の形が人の気分にも影響するということを実感しました。
ただ、僕自身は家を建てたら恥ずかしい。
「あなたはこれをいいと思ってるの?」という……。
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服部 |
私も恥ずかしい。恥ずかしいですけど、
見せたほうがいいと思うんです。
私の場合は表現の一つだし、長いレンジで、
日本の古い民家を受け継いでいきたい
という思いもあるんですね。
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糸井 |
文化−−ですか。
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服部 |
日本の土地には固有の気候があって、
それに合った家づくりをしてきたわけでしょう。
それを言葉でなく、形で伝えたいという思いがあるんです。
私は今、仮に住んでいるのかもしれないけど、
この家は残る。そしたら、次の人が
また楽しんで住んでくれたらいい。
うちの家も失敗した部分は数えきれないくらいあるけど、
そこからまた、「こうしたほうがいい」
というのがわかってきますね。
だから、いくつでも建てたいくらいです。
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糸井 |
そういう人がいてくれないと困ります。
みんなが僕になったら、世の中はおしまいだ。(笑)
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隈 |
つくるということは、やっぱりすごく貴重だと
僕は思いますよ。ものすごく自分の中のボルテージが
高くないと家はつくれない。そういうことがないと、
世の中はつまんなくなってきますからね。
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糸井 |
服部さんが経験した失敗の部分もそうですけど、
完成しているかどうかにとらわれず、過渡期のものを、
「このまんまですけど」と出して、
「一緒につくりましょう」というコミュニケーションから、
また次の何かが生まれてくるかもしれませんね。 |
服部 |
そう思います。
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糸井 |
隈さんは「建築家は否定されてるんじゃないか」
とおっしゃってますが、今の時代、そういう迷いこそが、
かえって、信じられる気がするな。
その迷いの中に、自分も一緒に迷わせてくれという信者が
増えてくるだろうという予感も、僕にはあるんです。
(おわり) |