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リリー |
一番最初は長編エッセイという
タイトルで書き始めたんですよ。
自分のことを書いても
小説って言われる人と、
言われない人の違いっていうのが
たぶんあると思うんだけど、
それはやっぱり作家さんが書けば
小説になるし、
みうらさんとか俺みたいなエッセイ野郎は、
長く書いてもエッセイになるし。
だから、今まで俺が書いてた
エッセイの粋をここに!みたいな
気持ちで書き始めたんですけど
でも、お袋が病気になったりするような
自分が笑えないことを
笑わそうとするときの寒さって
いらないですよね。
※書き始めたころは
「自伝じゃなくて
オカンのことを書いたエッセイ」
と語っている。 |
糸井 |
それはもうすごいですよ。 |
リリー |
もうそういうことを
考えてることが笑えないんです。
だから、ゲラになった時点で
だいぶ変わってるんです。 |
糸井 |
うん。 |
リリー |
笑いを取りにいってるところって、
あからさまに切ってるんですよねえ。 |
糸井 |
あとで? |
リリー |
あとで。 |
糸井 |
はあー。 |
リリー |
その過程でそうなっていったんで、
みなさん泣いてください、
感動してくださいって
気持ちじゃないんですよね。
自分が恥ずかしいから
笑いを切っていったっていうのは。
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糸井 |
笑いを入れるとあまりにも
地続きになるんでしょうね。
普段とね。ああ、そうかあ。 |
リリー |
例えばおふくろの話なんかでも、
よく急須がないないって探してたら、
冷蔵庫に入ってたことがあったんですけど。
そういう話は友達とするけど、
逆におふくろのことを俺は好きだ
みたいなことっていうのは、
友だちと普段、
話す話じゃないじゃないですか。
無気味な話になるから。 |
糸井 |
うんうん。 |
リリー |
何かやっぱり、
いつもしゃべってるようなものの
調子では書けなかったっていうか、
最終的にそれをやってたら
すごく変なものになるっていうか。 |
糸井 |
そうだろうね。
だからいつもが否定されますよね。
それやっちゃったらね。
お笑い芸人さんたちがね、
さんま御殿に出るために
ネタ用に生活をするっていう人が
いたとするじゃないですか。 |
リリー |
はいはい。 |
糸井 |
それやってても絶対無理なんですよね。
どっかのところで
「それ作りやろ!」
と言われてもいいから、
作りに近いところで
拾っていくってことをしないと、
フィクションと現実っていうのが
腑分けできないと人って
生きていけないと思うんだ、
でも芸人さんたちは
けっこう危ないところまで近づいてくし、
みうらじゅん、リリー・フランキー的な
辺りのエッセイストたちっていうのは、
けっこう触ってはいますよね。
だからこそフィクションのところでは
笑いを切っちゃって、
向こうの世界というふうに
渡すんでしょうね。
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リリー |
うん。 |
糸井 |
今でも考え方のおもしろいことは
いっぱい残ってるから、
笑う部分じゃないけれども
リリー・フランキーだなって
思いながら読めるとこがいっぱいあるから、
そこはキャラですよね。 |
リリー |
小説を書いてるっていう意識が
全くなく書いてるんで、
起きたことを
順々に書いていったんです。
それで過剰に演出すると、
それがまた逆によくないから、
淡々と書こうとしたんですけど、
これ作り話っぽいなあって
書きながら思うような
現実の話があるじゃないですか。
そこは削っていくってことに
なっていくんだと思うんです。 |
糸井 |
うん。 |
リリー |
でもやっぱり時として
そういうことが起きると思うんです。
この間、友だちが
自分ちの家の前で
急に女に抱きつかれて
ペッティングしてくれって
せがまれたとか。(笑) |
糸井 |
はははは。 |
リリー |
そんなエロ本みたいな話が
時々起きるじゃないですか。人生って。
現実の方が通俗的であって、
純文学的なことっていうのは
実際にあることを書かない虚構になっていく。
ほんとは人のそれぞれの生き方も、
俺も本にしたから
いろんなことがあったと人は思うけど、
どんな人だって、
このくらいの厚さの本になったら
すごい全部ボリュームのあるおかしなことが
いっぱい起きてるんですよね。 |
糸井 |
うん。あと、人が普通に生きてる時に
何かをヒントにして
自分の行動やら考え方を
決めてるわけだから、
それは金色夜叉を
ヒントにしてるかもしれないし、
次郎長外伝を
ヒントにしてるかもしれないから、
必ず通俗的な行動に落ち着くんだよね。
(つづきます!) |