今回お話するプラハでのいろいろは
以前「“写真を観る”編 ヨセフ・スデク」で
お話ししたことにもつながります。
ちょうど今、代官山の「B印YOSHIDA」にて
プラハで撮影した写真を展示しています。
その為に、新たにプリントをしたのですが、
暗室作業の中で、いくつかの発見がありました。
「プラハの光」を一言で言うと、
とても“透明度の高い光”という気がします。
街並みが整然としていることもあるのでしょうが、
そこには、明らかに日本よりも粒子の細かい光が
存在しているように感じます。
いざ、それをプリントで表そうとすると、
当然のことながら、“黒”の表現が大事になります。
なぜなら、写真の世界には“白”という色がありません。
これは、カラー写真においても同様で、
“白”色を表現する場合は、
紙の“白”、今ならば、モニターの“白”。
そこに生まれる陰としての“黒”は、
陰そのものの中にも、あたたかさを感じる
“温黒調”とよばれるような、
少し茶色い黒色での表現が適しているように思います。
今回「HULBOTISK」展で展示している
フォトグラビュール印刷にしても、
スデクを中心とした写真集にしても、
ほとんど、その中における“黒”の表現は、
“温黒調”としての“黒”で作られています。
微妙な“黒”の違いで
写真の印象は大きく変わります。
例えば、習字の時に使用する“墨”にしても、
自身で墨を擦って出来上がった“黒”と、
墨汁で作った“黒”は、
まったく違う“黒”でしたよね。
そんな違いが、写真の世界でもあるのです。
今回写してきた写真の中でプリントが最も難しかったのが、
最初の木漏れ日の写真でした。
これは、木漏れ日のまた木漏れ日ですので、
1枚の写真の中に、2種類の光があります。
個人的な印象としては、
今現在の光と、ずっと昔からここにある光、
その2種類にも感じたりして、
それを少しでも定着できたらと
暗室の中で試行錯誤してみました。
プリント作業を進めれば進めるほどに、
光と、その光が織りなす影は、
ぼくにとって、ますます特別なものとなりました。
というのもその中に、大好きな「スデクの光」と同じ光を
見つけることが出来たからです。
「photo=光の粒子、graph=絵」と考えると、
スデクの写真は
「写真」そのものと言っていいのかもしれません。
今回は、初めてのプラハでしたので、
どちらかというと、街を歩きながら、
デッサンのように光を追いかけてみましたが、
次回は、もう一歩進んで、
あらためて、プラハという街そのものと
向き合ってみたいと思った暗室作業でした。
これはプラハの“黒”に限ったことではありませんが、
あたたかい“黒”としての陰と
あたたかい“白”としての光、
この2つの軸で世界を見つめてみるというのも、
写真にとって、あるいはぼくたちにとって、
とても大切なことなのかもしれません。
2016-10-13-THU