実はボク。
やっぱりいろんな人たちに愛してもらったお店を
無くすというコトに、罪悪感に近い気持ちを感じてた。
飲食店を繁盛させたが最後、
その店を出来うる限り長い間、
営業し続けるように努力するのが
経営者としての責務である。
そうボクはずっと思っていたからです。
父は松山という街で1970年代の後半まで、
街で最も人気のあったレストランを経営していた。
最初は熱狂的なファンが日本中からかけつける、
鰻料理の専門店。
そこがまさしく、分かりにくい場所、小さなお店。
けれどお店の人が間近で料理を作り、
人情味あふれるサービスがあった店。
それがあまりにはやりすぎ、お店の横に別館ができ、
大きく立派な支店が次々、
街の目立った場所にできるようになる。
ボクのおばぁさんは、そんな状況を見てこう言った。
オデキと飲食店は大きくなったら潰れるんだ‥‥、と。
そう言って、ボクの父と大げんかして、
彼女は海を渡った別の街で
小さなお店をこさえて逃げてった。
その2年後かなぁ?
会社は潰れた。
大きくなったオデキよろしく、
潰れた跡はあばたよろしく
誰にも使われず朽ち果てるがままの
大きなビルだけ残った。
ボクらも街をあとにして、新たな街で新たな人生。
父が経営していた店で感じたコトや、食べた料理や、
なによりそこで働いていた人たちのコトを
忘れることが前に向かって進むこと‥‥、
と思ってみんなで頑張っていた。
ボクが35才になったときのコト。
松山で通っていた高校の同級生から
手紙が一通、届きました。
「高校を入学して今年で20年。
卒業20周年を3年後に控え、
その打ち合わせをかねてみんな集まりませんか。
いろんな理由で卒業できていない人も、
これを機会に集まって昔の話ができればシアワセ。
ぜひ、ご参加をお待ちします」と。
高校2年で転校した、ボクは当然、
卒業名簿には乗っておらず
けれどボクにとっての高校生活の、
思い出はほとんど松山でのコト。
なんてウレシイ企画だろう‥‥、と、
それでボクは松山に行く。
なつかしかった。
20年もたって
顔や姿がすっかり変わっているのだけれど、
不思議なコトに誰が誰だかわかるのですね。
中でも高校時代に仲良くしていた友人と、
会って話をはじめると20年なんてひとっ飛び。
昔のコトが昨日のように思い出される。
その中のひとりがボクに写真を見せる。
お前にこれを見せたくってね‥‥、と。
言いながら渡されたそれは、
ボクの父がやっていた飲食店の前で写した記念写真。
彼とお父さん。
お父さんは彼の妹をだきかかえ、
おかぁさんがちょっと離れたところに立って
みんなニコニコしながら写ってる。
この前、写真の整理を息子と一緒にしてたんだ。
そしたらコレが出てきてネ。
こんなうれしそうな顔をしているお父さんを
初めて見たよ‥‥、って。
なんでこんなにみんなニコニコしているの?
そう言うから、ココのお店はとてもたのしくて
おいしいレストランで、
だからみんなこんなにニコニコしてるんだ。
そう答えたら、ボクもそこに行きたいなぁ‥‥、
って息子が言うんだ。
残念だなぁ、もうこの店はないんだよ。
そう答えたら、
息子がとても哀しい顔をしたんだよ‥‥、って。
人の思い出の舞台となった良いレストランは
絶対潰してはいけないんだ‥‥、
とボクはずっと思ってた。
そして渋谷のボクたちの店。
無くすのでなく、
一緒にそこで働いていた仲間の店が
開業しようとする店の、
どこかにそうした思い出を残せぬモノかと、
それがそれから2ヶ月半の、
お店づくりのテーマになった。
また来週といたします。
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