ボクは一時期、日本の外食産業が嫌いで
仕方なかった時がありました。
レストラン自体が嫌いになったワケではなくて、
外食産業が置かれた環境があまり過酷で、
未来がみえない。

ボクが、レストランを処分して
しばらくたった頃のコトです。
チャイニーズアメリカンの
ビジネスパートナーが言っていた通り、
行き過ぎたバブル景気は
ユックリと終わりの気配をにじませていた。
けれど一度、上がってしまったモノは
なかなか元にはもどらない。
例えば地代。
それから家賃。
かつてちょっと無理をすれば飲食店に家賃が払えた、
通りに面して目立った場所は、みんな値上がり。
普通の飲食店には手が出ない、高嶺の花になってしまう。
地上げがおこって、小さく名もなき、
けれど正直で上等な飲食店が次々姿を消していく。





飲食店には三つの種類があるんです。
お店を経営する上で、
絶対、必要とされる代表的な費用が三つ。
原料費。
人件費。
それから家賃という3つの費用の、
どれを大切に思っているかで
飲食店を分けるコトができるのですネ。

不便な場所に平気でお店を開店し、
驚くほどにお値打ちな料理を出しておもてなしする。
店にお金をかけるより、その分、食材にお金をかける。
だからお店は古ぼけていて、けれど清潔。
お店の人もほとんど厨房の中にいて、
最小限のスタッフでお店を切り盛りしているお店。
そうしたお店が原料費をタップリ使うのが好きな店で、
がんこおやじの老舗が大抵、
こうしたお店だったりするのです。

サービスが良いので有名な店。
テーブルとテーブルの間隔がユッタリとってあって、
3つから4つのテーブルにひとりの割合で従業員がいる。
いつも笑顔で、しかも商品知識がしっかりしていて
どんなお願いごとにも、
前向きに、承知しましたと返事をくれる。
決して安売りするコトなく、適正価格をかならず守る。
こうしたお店が、人件費をなるべく多く払うことで
働く人とお客様とを
共にシアワセにしようという志の高い店。

便利な場所、目立つ場所。
そこに立派なお店をつくり、
広告をバンバンうってお客様を呼び込むお店。
なにより他の人が払えぬ高い家賃を払う。
誰もが認めるいい場所を手に入れることが
最大の広告であり、
売上高を増やす秘訣であるとして、
“家賃を払うコト”が好きなお店もあります。
その大抵が、資本力のあるチェーンストア。
あるいは飲食店をマーケティングの舞台や
あるいは多角化の道具とおもって
異業種から参入してくる
ゴージャスな店だったりしました。

そしてその時期。
家賃を払うのが上手なお店がどんどん増えて、
飲食店が好きな人達のお店が次々、閉店していく。
レストランで働くことが好きな人。
おいしいモノを食べて喜ぶお客様の、
そのシアワセを自分のシアワセにすることが得意な人が
働くべきが飲食店。
少なくとも、ボクが好きな飲食店は
人をシアワセにするのが上手な飲食店で、
けれど、家賃が払うコトが得意な人しか
飲食店ができぬ世の中になってしまった。
そう思ったらとても悔しく、
ボクはかなり落ち込みました。
かと言って、自分ひとりの力ではどうしようもなく、
自分の好きで仕方がないレストランが苦しんでいるのを
指をくわえてみているしかない。




そんな切なさ、悔しさに
ボクはボクの父に、
このままじゃぁ、外食産業はダメになっちゃう。
何かできることをしなくちゃ、
日本の飲食店はみんなチェーンになっちゃうよ‥‥、と。
そんなコトを言われなくても、
そうした危機感を誰よりも強く持っていたのが
恐らく当時のボクの父。
飲食店に携わる人たちをひとりでも多く
シアワセにしようと思って作った
ボクらが働くコンサルタント会社のトップであって、
業界に発言力を持つ彼をして、
あまりに外食産業が置かれた当時の環境は過酷で厳しく、
どうにもならない状態だった。

二人は顔を合わせると喧嘩になった。
あなたは結局、何もしないで
その場しのぎをしているだけだ‥‥、
と、父に向かって悪態をつく。
冷静に今思い出してみれば、このときの父。
良く我慢をしてたよなぁ‥‥、と思うほど、
父はボクの意見を静かにじっと聞く。
けれどあるとき、堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
ボクは父に殴られた。
そしてその晩、ボクは家出をしたのです。




ずっと準備をしていました。
何しろボクの手元には、
レストランを処分したときの法外なお小遣いが眠ってた。
生まれてこのかた、ずっと親と一緒に過ごし、
独立したいと思いながらもそう切りだすと
ことごとく、まだ一人前じゃないんだからと
ダメと言われる。
今の仕事もオモシロクはない。
なにより未来に夢がもてない。
この状況から逃げ出して、
新たな場所で出直すチャンスと、
何かキッカケを探していたボク。
だから喧嘩をしかけて、
お前でてけと言って欲しかったのかもしれません。
殴られたのをキッカケに、
身の回り品と印鑑、それから通帳を持ち
ボクは一旦、家を出る。
そして友人の家に転がり込んで、
本格的な家出の準備を開始する。

行きたい場所はきまってました。
ニューヨーク。
何度か仕事で訪れて、
ボクはその街のレストランビジネスが
好きで好きでしょうがなかった。
日本と同じく家賃は高く、
けれど高い家賃をひねり出すために、
従業員を犠牲にするようなお店がなかった。
すべての人にチャンスが用意されている、
日本と異なる不動産の契約事情。
なによりチップという習慣が、
働く人の懐を分厚く保護をしてくれている。
人と人とがシアワセになる場所としてのレストランが
ずっと正しく機能している、
ニューヨークというその街で、
ボクは自分の可能性を試したかった。

仕事がらみの友人が、何人かいて、
レストランのプロモーションを手がける会社や、
デザインオフィスから面接をしてもいいよと、
仕事もなんとかなりそうだった。
気持ちは前途洋洋でした。

一週間後のニューヨーク便の予約をし、
お世話になった人たちの挨拶をしてと
出発までを忙しくした。
家や会社に電話をかける、
暇もないほど忙しくして、けれどある日。
転がり込んだ友人の部屋に、母の名前で手紙が届いた。
何かの手立てで、ボクがそこにいることをつきとめて、
それで連絡をしてきたのでしょう。

受取人は友人で、封をあけると手紙がひとつ。
それからデコボコ、
何か分厚いモノが入った重たい包みがひとつ。
手紙は友人宛で中には、
うちの息子がお世話になります。
もし連絡がつくようでしたら、
同封の包みを渡してやってください‥‥、と。
それに商品券が入ってた。
ほら、おふくろさんからだよ‥‥、
と手渡された包みの中には
ナイフとフォーク、それからスプーンがひとセット。
それに手紙がありました。

シンイチロウ。
あなたはおそらくこの日本から出ていくのでしょう。
どこにいようと。
なにをしようと。
あなたは私の大切な分身だから、
私のコトをいたわるつもりで自分を大事になさい。
なによりおいしいモノを食べなさい。
おいしいモノを分け合う仲間をつくりなさい。
食べるものがなくなったらば、
自分で何かをつくりなさい。
そのお料理を、いいお皿にいれ、
上等なナイフ、フォークでお食べなさい。
お皿は邪魔になるでしょう。
だから銀のナイフ、フォークを送ります。
毎日、毎日、キレイに磨いてあげなさい。
なにを食べても、誰と食べても、
このナイフやフォークで食べてもおいしく感じない。
そうなったなら、家に戻っていらっしゃい。
みんなでご飯を食べましょう。

ボクは二日後、旅立ちました。
ナイフフォークにスプーンをそっと、
カバンにしのばせて。
それからしばらく、ボクはニューヨークの人になる。




──さて、今回から、新シリーズです。
  ニューヨークでの半年ほどを
  これから紹介していきます。
  メインテーマは、「自分をただしく伝える」
  というコト。
  大人と大人がレストランで
  ステキな人間関係を作るということを、
  書いてみようと思っています。
  それにしてもこの導入部分を書いていて、
  今の日本の状況と、当時。
  1990年代の始まりの頃ですけれど、
  その状況があまりに似ていて、ビックリしました。
  何かしなくちゃいけないんだなぁ‥‥、
  ってそんなことも思います。)


2011-10-13-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN