ボクが買ったお酒の本。
カクテルだとかの、
「お酒を使った飲み物」の本ではなくて
お酒そのものの本とは言っても、その内容の充実たるや。
ちょっとした辞書ほどの分厚さ、重さがあって
それを全部覚えるなんて、まず不可能。
お酒の種類にあわせて分類されている、
その本のどこからまずは読みはじめよう‥‥。
ジンにしようか、ウォッカにしようか‥‥、
あるいはスコッチ?
どうしよう‥‥、と悩んで
「そうだ‥‥!」と、ある出来事を思い出します。

仕事で比較的頻繁に
日本とアメリカの間を行ったり来たりしていた頃。
旅に対するこんなポリシーを持っていました。

移動は安く、滞在は贅沢に。

まだ若くて体力的に無理がきいたというコトもあり、
どんな長距離であろうとエコノミークラス。
しかも一番安い飛行機会社のチケットをとり、
かわりに現地のホテルはなるべく上等で、
名前の知れたところを選ぶ。
現地で仕事をするときに、
「どちらにお泊りになってらっしゃいますか?」
なんて聞かれても、
恥ずかしくないようにというポリシー。
だって移動しているときなんて、寝ちゃえば
ファーストクラスもエコノミークラスも同じコト。
そう思って、安いチケットで
サンフランシスコまでやってきたときのことでした。





飛行場で待てど暮らせど、ボクの荷物が出てこなかった。
ロストバゲッジというやつです。
エコノミークラスでも快適に
長距離フライトをたのしめるよう、
体に馴染んでしめつけぬ、着崩した服に
首枕とかアイマスクとかをギッシリ詰めた
バックパックだけが手元にあって、
それ以外の荷物はすべてスーツケースの中にある。
予約をしているホテルの、レセプションの前にたって
恥ずかしくない着替えの服もそこの中。

ボク以外にも数人の荷物が行方不明になってるようで、
どこにあるのかと調べてもらうと、
なんとサンフランシスコじゃなく
サンディエゴに向かって旅をしている最中だという。
早ければ今日の夕刻。
遅くとも明日の朝には、ここに戻ってくると思われる。
そしたら、指定の場所までお届けしましょう。
お泊りになるホテル。
あるいは滞在先かご自宅をお教え下さい‥‥、
と、その対応は丁寧でしかもとても手慣れたモノで、
こうしたコトが日常茶飯事なんだろうなぁと、
そのときはじめて思い知る。

まずはホテルへと、向かったホテルは
街を代表する優雅なホテル。

予約がとれないので有名と言われているけれど、
実は「予約することを許された人しか予約できない」
ホテルなのです。
そこに泊まるということは、
アメリカの古い価値観に認められるというコトなので、
普通の方には絶対お薦めしないのですよ‥‥、
と旅行代理店の担当の人が言うモノだから、
それなら泊まってみようじゃないのと、
ここを定宿にしている人の紹介状やら
いろんなモノを取り寄せ、
手練手管でやっと予約をしたホテル。
そんなところに、まるで違法に
国境を超えてきたばかりの移民のような格好で
いかねばならぬコトになる。
立派なメインエントランスにたつドアマンは、
ボクをあたかも飛んできたハエを見るがごとく
無視をして、ドアを断じて開けようとせぬ。
今日、ココに予約をとっているのです。
そういい、名前を告げると
彼は内線電話でボクの名前を確かめて、
けれどその身なりでは
このドアをお通しすることはできかねる。
別のドアまで回って中に入られたし‥‥、
と案内されたところは人ではなくて
宿泊客の荷物を出し入れする通用口。
ロストバゲッジになってしまったボクのスーツケースが
本来通るべき通路。
そこを通って、ロビーに入る。

かつての富豪の住宅を改装して作った
50室ほどしかない小さな館で、
当然、ロビーも小さく、
どこにいても従業員の目が行き届く。
つまりどこにも逃げ場のない、
ここに泊まることを認められた人たちだけの
密やかな空間。
ボクはそこで、自分はこの場の異物であると、
否応なしに思い知ります。
名前を告げます。
たしかにボクの名前は今日の予約リストの中にあります。
何か身分を証明するものはと言われて、
パスポートとクレジットカードを差し出します。
受け取ったレセプションのスタッフは
それを何度も入念に、あたかも
「これは偽造品ではないだろうな」
と言うがごとき丁寧でみつめ、確かめ、それで一言。

トラベルエージェントからのドキュメントを
拝見できますか? ‥‥、と。

あぁ、このホテルに確かに予約をしたという、
しかもその顛末を記載した証明書。
絶対、なくさないでくださいよ。
ここに初めて泊まるときには、
チェックインが関所のようなモノでして、
そこさえクリアーすればあとは、
優雅な時間を心置きなく堪能できる。
だから自分の名前を言う前に、
まずこの書類をそっとレセプショニストに
差し出すことをお薦めします‥‥、と。
そう代理店の担当者から念を押されていたのに、なのに。
それはいまだに空をさまよっている
ボクのスーツケースの中にあるのであります。

そう言うと、ならばお客様のスーツケースの
到着を待たせていただくことにしましょう。

なんとボクのその世の運命は、スーツケースに託された。
本当にココに到着するのかしら。
なによりそれまでどこかで
時間を潰さなければいけなくなった。
まさかこの、「ココにふさわしくないモノを
徹底的に拒絶する残酷なほどにうつくしいロビー」
に座って待つことなんて到底できず、
ボクは彼に質問します。

「近所にバーはありますか?」






ホテルの向かい側に大きなホテルがあって、
そこにバーがひとつある。
4時開店だからそろそろオープンする頃だろう。
通りに面して入り口があるから、
ホテルのロビーを通らなくても店に入るコトができる。
ほどよく安く、バーテンダーもしっかりしている。
どうだろう‥‥、と。

時計をみるとたしかに4時で、
なんとこの街についてすでに
6時間近くも経っていたというコトに、気持ちも憔悴。
ボクはバーのカウンターに座る人となった次第。

何をお作りしましょうか‥‥。
バーテンダーがそう聞いてくるのでボクはボソリと。
「ジンをオンザロックでいただけませんか」と。
飲めるものならなんでも良かった。
ジンでなくても、
ウォッカでもウィスキーでもよかったのだけど
「ウォッカ」をアメリカ風に
「ヴァカ」と発音するのはむつかしく、
ウィスキーはオヤジの酒のように思えた。
だからずっとアメリカでは
「ジンオンザロックス・プリーズ」
というのがボクの当時のスタイル。
「ジンの銘柄は何にするのか?」
とまたまた聞いてくるのでボクはぶっきらぼうに
「なんでもいいから飲みやすいのを」と答えて、
そのままボンヤリ天井を仰ぎみた。

大きなオンザロックグラスにかち割り氷。
透明なジンがトロリと氷を撫でるように注がれ、
ボクはひと舐め。
そしてふた舐め。
飲んで酔うのが目的ではなく、
バーというその空間で自分を必死に取り戻そう。
そしてもし、最悪の事態に陥ったら
一体どうすればいいのだろう‥‥、
と考えるための相棒として片手にお酒が必要だった。
だからグラスの半分ほども飲んだとき、
頭も気持ちもすっかりやさしく温まり
もう酒の力は必要なくなる。
オンザロックグラスの存在もほとんど忘れて、
ただボンヤリと。
それで1時間ほどが経ったでしょうか。

「メイアイヘルプユー」とバーテンダーの声がします。
何かお役にたてませんか?
という、アメリカ的なるサービスフレーズ。
ハッと我に返って声の方をみると
彼がニッコリしながらボクのグラスを見つめていいます。
「ジンオンザロックスが
 ジンの水割りにそろそろなってしまいますが‥‥、
 どういたしましょう?」とやさしく一言。
たしかに氷はほとんど溶けて、
せっかくのお酒が薄まっている。
申し訳なく思って一口。
飲むと、ジン独特の
ヘアトニックのような匂いのする水が
口の中に流れ込んでくる。
苦味ばかりを感じてまるでおいしくなくて、
ボクは思わずしかめっ面。
「ごめんなさい、せっかくのお酒を
 無駄にしてしまって‥‥」
そういうボクに、バーテンダーはなおもニッコリ。

いやいや、よかった。
まだ明るい時間から若い紳士が切羽詰まった顔をして、
バーに飛び込み、「ジンをくれ」。
銘柄なんかはこだわらないから
「飲みやすいのをくれればいいんだ」。
そんな風に注文されたら、
あぁ、飲みつぶれたくなるような
何か不幸があったんだろう。
と、まずは警戒するものなんだ。
そんな輩に酒を売るか売らぬか、
その判断もバーテンダーの大切な仕事の一つで、
だから、じっとあなたを見ていたけれど、
一向に飲み干す気配も無くて。
一体、どうしたというのですか?

ボクはココに至った理由を説明し、
ひとりの時間を共に過ごす相棒としての
お酒が欲しかっただけなんですと、しめくくる。

なるほどならば、ジンはバッドチョイスのひとつ。
なによりオンザロックは
「グラスを早く空っぽにしろ」
と飲み手を急かす飲み方だから、
今日のあなたの気持ちを裏切る注文だった。
そんなときにお薦めの、酒があるけど、
一杯ためしてみませんか‥‥。
ハウストリートにしてあげるから。

ハウストリート‥‥、お店のおごり。
断る理由は何もなく、
なによりまだまだカバンが届く気配もなくて、
お願いしますとボクは頷く。

さて来週。
何がボクの目の前にやってくるのでありましょう。
そしてボクのスーツケースの運命や、
いかにであります‥‥、ごきげんよう。



2012-04-19-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN