ボクの目の前に、
真っ白なコースターがそっと置かれます。
分厚い紙のしっかりとしたつくりで、まん丸。
その真中にはこのバーのある
ホテルのロゴが刻印されていて、
たったそのコースター1枚が置かれたことで
カウンターの空気が変わったように感ずる。
そのコースターの上にコトリとクリスタル。
底がコロンと丸まった、分厚いグラスが置かれます。

軽い茶色の液体をたたえた釣鐘状のガラスの瓶を、
うやうやしくも両手で運びコルクをキュッと抜き、注ぐ。
トクトク。
グラスの3分の1ほどを満たして、
再びキュッと栓してボトルをボクの目の前に置く。
赤いラベルに「Hennessy」と書いてある。

ブランデー。
当時のボクには、おじさんの古くさい酒のように思えて、
バーでの選択肢としてはなから
頭の中にはなかったブランデー。
それがボクの目の前にある。
それを薦めたバーテンダーは、
薦めた理由をこう言います。

手の中で花開き、時間と共に香りや味を変えてうつろう。
その時々の飲み手の気持ちをうつす
鏡のようなお酒でもあって、
ひとりで飲むにふさわしいお酒でもありましょう。
ブランデーと語り合うことができるようになれば、
退屈とは無縁。
紳士の嗜みとされると、
バーの酒を守るバーテンダーに一目置かれる
ステキなお客様になられるかと存じます‥‥、と。

そして彼はこうも続ける。
あなたがお飲みになっていたジンという飲み物。
もともと利尿作用を高める薬として開発され、
昔は格安アルコールとして労働者に愛されていた。
酔っ払うための風紀を乱す飲み物。
実際、食品の購入リストの中に
ジンが含まれていたことで、
莫大な遺産の相続権を失った
英国貴族がいたと言われている、
御すのがむつかしいお酒でもある。
お酒というモノ。
学べば学ぶほど、
深くてたのしいモノなのですよ‥‥、と。






そう言われれば、酒を学ぶというコトを
それまで一度もしたことはない。
なるほどそういうモノなのか、と思いはしたけど
やっぱり届くかどうか分からぬ荷物と、
そのスーツケースの中の書類に託された
この地におけるボクの命運。
それがあまりに心配で、
バーテンダーのその言葉もすんなり頭に入ってこない。
ただひとなめ、ひとなめ。
口の中に入って来ては、
舌の上でフワッと香り体や頭をあたたかくして
なくなっていく、ブランデーの力を借りて
一生懸命、ココロ落ち着かせようとするのに
気持ちは精一杯。
バーテンダーも心得たもの。
ボクをそのままそっと一人にしてくれる。

どのくらいたちましたか。
グラス一杯分のヘネシーがまもなくなくなり、
二杯目をおねだりしようかどうかというそんなとき。
背中の方から
「あなたのスーツケースでございましょうか?」
と、声がする。
振り返ったらそこには確かにボクのスーツケース。
向かいのホテルのユニフォームを着たベルボーイが
そっと、ボクに向かって差し出している。
早速ボクはスーツケースの鍵を開け、
求められていた書類を彼にてわたす。
その内容を確認した彼。

「それでミスターサカキ‥‥、
 レセプションでお泊りの手続きをさせていただきたく、
 当ホテルまでお供させていただきます」と。

まずはバーの勘定をしてからと、
バーテンダーに声をかけます。
差し出された勘定書きにはジンオンザロックス分の
2ドル55セントという数字がかかれているだけで、
ブランデーは言葉通りにバーのおごりになっていた。
ポケットの中から、飛行場で両替したばかりの
アメリカ紙幣を引っ張りだして、
1ドル紙幣を数えつつ、
「そうだ、今は何時になりました?」。
聞くとなんと7時半。
もう4時間近くもココでこうして
酒を片手にボンヤリしてた。

10ドル紙幣を1枚だして、
おつりはいいです、と彼に言う。
ブランデーに助けてもらったお礼ですから‥‥、
と加えるボクに、バーテンダーはニッコリしながら、
こう言います。

バーの中と外は違った世界。
酒に酔い、たのしむコトが許されるバーのこちら側から、
ジェントルマンであることを要求される
バーの向こう側に行く前に、
鏡でご自身の顔を確認されるコトを強くお薦めします。
ちなみに当バーのトイレ。
全身をうつす大きな鏡もございますゆえ、
お着替えなどにも重宝されるかと存じますが‥‥、と。






なるほどたしかに。
ボクはスーツケースの中から、
空港についたらホテルに向かう前に
着替えようと用意していた、
上等なフランネルの上下と
糊の効いたシャツを取り出し、トイレに向かう。
入り口にトイレをキレイに整えておくのが役目の
おじぃさまが立ってるトイレで、
用事を終えてチップを払うと
洗った後の手をぬぐうためのハンドタオルを一枚よこし、
「サンキュー・サー、何かお好きな香水を
 お付けしましょうか?」と聞いてくる。
見ると彼が立っている後ろの壁には、
オーデコロンの瓶がズラっと並んでいる。
色とりどりで、どれも立派な瓶に入っていて
まるで洋酒が並んだバーの後ろの棚のようにも見える。
いつも使っているオーデコロンの瓶もある。
けれど、今日はいつもと違った香りをまとってみたい。
ツキに見放された今日の、
運を変えてくれるような香りはないか‥‥、
とそれでボンヤリ、キレイにならぶボトルを見ていた。

「これから食事に行かれるのであれば、香り仄かなモノ、
 これからまだお飲みになるのであれば、
 ジンの香りがするオーデコロンがございますが‥‥」
と、じぃさま、言います。
いや、ジンはまずい。
これから向かいのホテルに
チェックインをしなくちゃいけない。
気難しいレセプショニストから、
いい部屋の鍵を貰えるような
匂いってないものですか‥‥?
ヒトリゴトめいてボクは言う。

ならばジンの匂いは最悪ですな‥‥。
フランス語なまりの英語に弱い
ヨーロッパコンプレックスのホテルだから、
コッテリとしたフランスの香りで勇気を出してみてはと、
プシュップシュッと甘い香りを耳の後ろと、
ジャケットの中に向かってふきかけられる。
その香水は体の温度にたちまちなじみ、
ついさっきまで飲んでいたブランデーのような
甘い匂いになって首から上を包み込む。
バーテンダー氏にグッドラックを背中をおされ、
宿泊予定のホテルに再び飛び込む。
今度はフランネルのジャケットで、
ボクのスーツケースを白手袋で運ぶベルボーイを従えて。
そのレセプショニストは
「お待ちしておりました、ミスターサカキ」
と、初めてボクの名前を呼んだ。
5時間ほど前の不機嫌は、
一瞬にしてなかったコトになってしまった大人の事情に、
ファーストインプレッションとはいかに大切であるか、
そのとき嫌というほど思い知る。

さすがにブランデーの香りがするフランス香水程度では、
予約通りの程良いサイズの
ダブルベッドが置かれた部屋しか手に入れられず、
けれどその優美で居心地良さそうなそのしつらえには
ウットリします。
ボクのスーツケースを
件のバーからずっと運んでくれていたベルボーイ氏が
それをクロゼットの中に置き、
「ミスターサカキ、
 お詫びせねばならぬことがございます」
と恐縮した表情で頭を下げる。
ボクのチェックインがこれほど遅れてしまったことの
不手際を今更あやまるつもりなのかと、ボクは思った。
けれど彼があやまる内容。
そのあまりの意外にボクはビックリ、さて来週。



2012-04-26-THU


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© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN