ボクはちょっと意外に思った。
食事といえばおいしいもので
手っ取り早く腹を満たすのが好きな父。
一方、ゆっくり時間をかけてお酒をたのしみながら、
おいしい時間をあじわうのが母の食事のスタイルで、
なのにお酒を飲まずすぐに寿司を握ってというのは
まるで母らしくない。
考えてみればそれまで母と2人で、
カウンターにすわって寿司を食べるという機会が、
ボクにはなかった。
母も寿司屋では、
寿司をつまんでササッと帰る派なのかなぁ‥‥、
と思って母の方をみたらばおもむろに、
両手をそっとカウンターの上におき
磨きこまれた白木の肌をやさしく撫でる。
そして一言。
「今日はお寿司でお腹いっぱいになりにまりました、
よろしくお願いいたします」と。
白木のカウンターの上の母の両手。
マニキュアをおとした、
手にもスッピンという言葉があるとするなら
まさにスッピンの指。
それをみてか、あるいはただの気まぐれか、
ご主人がニコリとしながら、
それではおまかせいただけますか?
いいえと言える理由もなくて、どうぞよろしく。
赤身のマグロがストッと目の前におかれます。
細長く、キチッと形を整えられた
端正な表情のルビー色したマグロの赤身。
母はそれを指でつまんで、
口の中へとそっと滑らせモグモグ、
パクリとひと口で味わいニッコリ。
そしてすぐさまもう1個。
軽快なリズムで次々、
寿司を口に運んでおいしく味わうボクら。
お箸は封をきられることなく、すべては指でことがすむ。
見事な手際でにぎられたシャリは
口の中でほぐれこそすれ、
指を汚すことなど決してありはせず、
かたわらに用意されたおしぼりを
使う必要すらないほどだった。
次のネタがご主人の手の中で見事な寿司に姿をかえて、
カウンターの上におかれる。
その寿司が休む時間もほとんどないほど、
即座にボクらの口の中へと放り込まれて、
そして次の寿司がまもなくやってくる。
気づけばご主人とボクら2人の
一対一の真剣勝負のような感じになって、
30分ほども経ちましたか。
本日、ご用意のネタはこれでひと通り
お召し上がりいただいたコトになりますが‥‥、と。
奥さんのキレイな指に恥じないようにと、
いつも以上にいい仕事をさせてもらえました。
まだお腹に余裕があるようでしたら、
ちょっと変わったモノを握ってみますので、
お召し上がりになりますか?
そしてボクらは漬けのまぐろや、
普段は蒸して握られるエビを焼いてそれから握るという
「すごくおいしくすばらしい寿司」
をいくつか味わう栄誉に浴した。
まもなくそろそろ1時間。
電話がなって、それを受けた若い衆が主人に
「おなじみさんが今日は席があいてるか?」と。
いや、満席だというご主人に、母がいいます。
私たちはそろそろお暇いたしますので。
「30分ほどでお席がご用意できますからと、
お答えしとけ」
といいながら、
最後に干瓢巻きを召し上がっていかれませんかと、
それをつまんで〆とする。
どうぞお使いくださいませと差し出されたおしぼりに、
いいえ、結構と手をつけず、
代わりに教えていただきたいことがあるのですけど。
このご近所に、
タバコの匂いのしないバーはございませんか?
指の香りを肴に
ワインをたのしみたいと思うもので‥‥、と。
奥さん本当に粋だねぇ‥‥、と。
一軒、みずから電話をかけて
バーのカウンターがあいているのを確認してから、
その店の名前と簡単な地図をを名刺の裏に書く。
よろしければお名刺を頂戴できませんでしょうか。
そういう主人に、
申し訳ないけれど私は名刺を持たぬ立場で、
うちの息子の名刺でよければ
もらってやっていただけませんこと?と。
それで結局、ボクはお店のおなじみさんしか知らぬ
電話番号が入った名刺を手にするコトができたのです。
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