さて、その日が来ます。
場所は新宿。
雑居ビルの間に小さな扉があって、目立たぬ看板。
それをスポットライトが明るく照らす、
はじめての人をやんわり拒絶するかのような、
謎めいていて、密やかなその外観。
ドアをあけると狭い階段が下に向かって降りていて、
一段、そしてまた一段と下に向かうにしたがって
バーの全容がみえるようになっていました。
外の雰囲気からは思いもよらない、
クラシックなしつらえで
12、3人ほどが座れる立派なカウンター。
中にはバーテンダーがズラッと並んで、
下に降りていくボクたちの姿を認めて、ニコリと微笑む。
カウンターの反対側にはテーブル席がいくつか並んで、
お客様を待っている。
おひさしぶりです‥‥、と母に頭を下げながら、
「お召し物やお荷物をお預かりいたしましょうか?」
とにこやかに、店長らしき紳士がいいます。
寒い日でした。
コートやジャケット。
ボクはブリーフケースを彼に手渡す。
手渡したときのうやうやしくも丁寧な手際にウットリ。
この人、あるいはこの店になら安心して
自分の大切なモノを預けることができるんだ‥‥、
とみんな思ったのでしょうネ。
次々、身の回りのモノを預けて身軽になっていく。
母いわく。
高級なバーというのは、
高級なお酒をおいている店ではないの。
最上級の安心をこうしてお客様に感じさせてあげられる店が
高級なのよ。
‥‥、といいながら、テーブル席に案内される。
こちらのお席でよろしゅうございましょうか、奥様。
そう言われながら案内されたテーブルは
6人がけのソファのテーブル。
テーブルの上には小さなカードが置かれ
「サカキ様」と書かれてあった。
あの人たちはね、私の名前がサカキだっていうコトは
ずっと昔から知っているの。
でもネ、バーでお客様の名前を不用意に言うのは無粋。
バーというのは
「社会的ないろんな厄介な役割を忘れる」
ためにやってくる場所。
肩書きだったり、名前を必要としないですむ場所。
だから口にだしては言わないの。
私はココではいつも「奥様」。
こういうお店は信頼できる。
一軒知っておくと、
ここぞというときに重宝するのよ‥‥、と。
座ると目の前にはカウンター。
その端から端の全容を眺めることができるテーブル。
なるほど、バーという場所を観察するのに最適な場所‥‥、かぁさん、やるね! と感心します。
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