お客様を家にお呼びしておもてなしするとき。
一番最初に、「ハウスツアー」という、
お出迎えの儀式のようなコトをする。
もてなす側。
つまり、その家の住人が家の中を案内してまわるのですネ。
そこがベッドルームがひとつしかない
小さなアパートであれ、
門番がいるような郊外分譲住宅地にある、
迷子になってしまいそうなほど大きな家であれ、
はじめて家に訪れた人は
「家をご案内いたしましょう」ということになる。
大抵の場合、ベッドルームのような
プライベートな場所であったり、
ガレージなんかも見せてもらえる。
ハイスクールに通う子供がいるときなんかは、
「子供が見せちゃダメっていうので」と、
子供部屋だけは公開NGになったりするけど、ほぼ全部。
「見せて」といっているわけじゃないのに、
家の隅々を案内されるというコトに
最初は面食らったものでした。




理由はいくつかあるのでしょう。
実用的なところでは、
トイレの場所をお客様にお知らせするため。
用をたすスペースだけが独立した
お客様用のトイレを備えた家もあるにはあるけれど、
基本的にアメリカのトイレはバスルームの中。
家によってはベッドルームの中を通らなくては
使えない構造のところもあって、
だから結局、家の中をもれなく案内する必要がまずはある。

それ以外にもお客様に自分たちの生活を知ってほしい、
という気持ち。
家にお客様を招いてもてなす。
そこでかわされる会話は当然、仕事のコトではなくて生活。
趣味や関心事、みんなに自慢したくなるような経験を
互いに分けあいながら、
共に時間をたのしむというのが
ホームパーティーのあるべき姿。
その会話のヒントが家の中にああるのですね。
ベッドルームに置かれてあった
旅行の写真を思い出しながら、
「あのステキな写真は、
 どこに旅行されたときに撮ったんですか?」
と話題をふれば、思い出話に話がさく。
コルビジェの椅子をみつけたならば、
建築やインテリアデザインが好きな人かなぁ‥‥、とか、
話題のキッカケがいたるところに用意されてる。
それが家。

それと同時に、
「自由に使っていい場所と、そうでない場所」を
そのとき、さり気なく伝えてくれる。
自由に使える、例えばバスルームを
見せてもらったときには大抵、
「自由に使ってくださいね」って、
ドアをそのまま開け放す。
子供部屋のようなプライバシーがほしい場所は、
見せると同時に何も言わずに
ドアをキチッとしめてニッコリ。
「これ以上は子供が嫌がりますもので」と。

社交において重要なのは、
「自分が自由にふるまえる範囲を決して逸脱しない」
ことなのだろうと思います。
ホームパーティーで
ずかずかウェルカムされない部屋に入っていくコト。
あまりにプライベートな質問や、
誰もが避けたい話題を
ズケズケ持ち出しまわりを困らせるコト。
無礼な行為は「一線を越えてしまう」ことから始まる。
その一線を知っているということが
「社交的」というコトなのだろうとも思います。

当然、その一線はパーティーが進むに連れて。
あるいは人間関係が深まって、
互いの距離が縮むにつれて引かれる場所がかわったり、
最初は分厚い壁のようだったのが、
薄くて低い飛び越えられそうな
生け垣みたいになったりしていく。
無理やり線を消そうとする人のことを無遠慮といい、
いつまでも最初の一線を引いたままの人のことを
他人行儀というのでしょう。




フォーマルなおもてなしの食卓。
社交の場であるそこにも当然、この一線があるのです。
ゲストの正面にはプレイスプレート。
飾り模様もうつくしい大きなお皿がドッシリ置かれ、
その右側にはずらりとナイフ。
反対側にはフォークがならび、その数を数えれば
これからいくつ料理が出てくるか想像できる。
一皿20分から30分をかけてたのしむとするならば、
ナイフ2本で1時間。
4本並べばお腹を満たすのに、2時間かかる。
果たして、その時間分の話題を持ってきたかしらと、
ドキドキしたりするコトになる。
プレイスプレートの向こうには、
デザート用の小さなナイフにフォーク。

そしてこれらナイフとフォークが“社交の一線”なのです。

キラキラきれいに磨き上げられた銀色の一線の
向こう側に決して手を出してはいけない。
特に他の人のナイフとフォークを越えて
手を出すということはバッドマナーで、
だから例えば塩が隣の人の前にあったとしましょう。
手を伸ばしたら取れそうで、
でもその間にはナイフやフォークが置かれてる。
だから一言。
「パス・ミー・ザ・ソルト?」
塩をとっていただけます?
それが社交というワケです。

食事が進んでいくに従い、
ナイフ、フォークは一対づつ消えてなくなる。
隣同士を隔てていた社交の壁がどんどん薄く、
低くなってく。
お腹も満たされお酒もすすむと、
互いの距離が縮まってそれにあわせるように、
互いを隔てる線がなくなりはじめる。
デザートがやってくる頃には、
同じテーブルを囲む人たちはみんな友人。
和食にあっては、お膳がそういう役目を果たす。
料理はお膳の上に置かれて、
それが食事や水菓子がやってくる頃にはお膳はなくなり、
食卓全部がひとつのお膳のようにふるまう。
社交という場では、時間をかけて食事をしながら
理解を深めて行くものだ‥‥、というのが
世界の大方の常識なのだろうと思うのだけど、
そこで中国料理の円卓。

上下がない。
境目がない。
隣り合う人との境界線が限りなく希薄な食卓。
それが円卓。

円卓接待におけるマナーは一体どういうものなのですか?
円卓接待にお呼ばれしたときに、
何を気をつけなくてはならないのですか?
って聞かれるコトがあります。
答えは簡単。
お腹をすかしておいきなさい。
料理を自らとることはせず、
もてなす側が薦めるものを勧められるがまま食べる。
そして、たのしい話をしなさい。
円卓にお呼ばれするということは、
すでに気を許した
友達のような関係なんだというコトだから。

なんだか誰かを円卓に呼びたくなってしまいます。

 

2013-09-12-THU



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