── | 糸井さんは 『土屋耕一のことばの遊び場。』のまえがきで 「土屋さんは、人間の暮らしと地続きのところで ことばをあつかっているように思えた」 と書いておられました。 人は、地続きではないところで ことばを扱ってしまうものなのでしょうか。 |
糸井 | 往々にして、そうなんですよ。 自分で書いていることを、実際には思っていない。 そういう人は、山ほどいます。 たとえばラジオのなんでもないおしゃべりで、 「雨の日に、このスタジオから外を眺めていると、 ときどき、女の子が男の人の腕に ぶらさがるようにしてしがみついてて、 歩きにくいだろうにと思うんですけれども、 そうやってひとつの傘で歩いていく 恋人たちを見ますね、ホントくやしいですね」 なんてことを言う。 ほんとうに、くやしい? 自分に恋人がいても、そう思う? 雨の景色を描くときに ほんとうに思っていようがいまいが、 そういうふうに言ってしまう。 月並俳句みたいなものですが、 それは地続きじゃないです。 ことばだけでやりとりしている状態です。 地続きじゃなくても、いくらでもことばはしゃべれます。 それで、プロにもなれます。 美文の伝統があった時代の日本では それがよかったのかもしれません。 「白髪三千丈」とか「鞭声粛々夜河を渡る」とか そういうことが「ことば」だった時代は ことばを表現することが、 エリートのひとつの嗜みだったのでしょう。 往々にして、ことばを職業にしてる人は そっちになりがちです。 |
── | 地続きのことばを使うには、 ことばを磨くのとは別の鍛錬が必要な気がします。 土屋さんはそのあたり、どんなふうに なさっていたのでしょうか。 |
糸井 | これから「ほぼ日」で特集する 土屋さんのコンテンツの中にも、 それから、これから出す本の中にも、 土屋さんの「遊び」の膨大な記録が登場します。 あれは、土屋さんがひとりでいる時間を使って やっていたことの記録です。 ただ何かに追われて、 練習問題をこなすようなことをしても まったく筋肉はつきません。 ひとりでいて、考えたくて考えてる、 考えざるを得なくて考えてる、 わからなくても考えてる。 そんな曖昧なリフティングをしてるような時間が、 きっとたくさん必要でしょうね。 |
── | 土屋さんにはそれがあったということは、 『土屋耕一のことばの遊び場。』を読めばわかります。 |
糸井 | よくわかりますね。 土屋さんはそこに時間を使ったんだろうけど、 そういうことをもっといっぺんにできるのが、 たとえば、旅です。 |
── | 土屋さんはあの時代にはめずらしく たくさん海外旅行をなさってますね。 あと、いちどにそういう 鍛錬ができるものといえば‥‥失恋だったり(笑)。 |
糸井 | そう、失恋だったりね。 あとは夫婦間のディスコミュニケーションだったり(笑)。 それらの体験は、ぜんぶ鍛練ですよね。 |
── | そういう蓄積が膨大だったのと、 トピックの選択が 土屋さんのセンスのあるところだなぁと思います。 |
糸井 | みんなそれぞれ 「これは考えるに値するテーマだな」という 一覧表のようなものを持ってるんですが、 その一覧表がつまんないと、 ぜんぶがつまんないんですよ。 「考えるに値しないようだけど、値するよね」 ということを見つけた人は、おもしろいんです。 |
── | ああ、おもしろいですね。 |
糸井 | 土屋さんは、 「人はあんまり考えないんだけどね、 俺は、これ好きなんだよ」 といって考えはじめるんですよ。 「粋」ってそういうことじゃない? |
── | 「歯磨きのチューブを最後どのくらいまで絞るかは 人によって違うのだろうか、 経済状況によって違うのだろうか」 と考えたり、 「正という漢字は 5をカウントするのに 最も適している漢字だ、ほかにあるだろうか」 ということを言ったり。 土屋さんのリストはぜんぶおもしろいです。 |
糸井 | それがおもしろいと、 人がおもしろがってくれるんだよね。 一方、つまんないのは、 ちょっとした発見みたいなもの。 「俺は飛行機が嫌いだよ。 あんな鉄の塊が空飛ぶなんて、 本気で思えるか?」 と、むきになっていう人が、いつまで経ってもいますよね。 あれはちょっと、つまんないと思う(笑)。 |
── | 土屋さんのリストは、 頭で考えたような感じがしません。 あのリストの充実ぶりは、 まさに遊びの鍛錬のたまもののような気がします。 (つづきます) |