千田 |
今日は、地図のことでしたっけ。
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糸井 |
はい、お話をうかがえたらと。
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千田 |
平成12年、わたし還暦の年だったんですけど、
60歳にもなるとね、
だんだん「生意気」になって参りまして。
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糸井 |
そうですか(笑)。
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千田 |
仲間と酒を飲むたびに
「気仙沼の町は、このままじゃダメだ。
こんなものがほしい、
あんなものもほしい」と言って‥‥。
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糸井 |
ええ、ええ。
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千田 |
口にした以上は「絵に残そう」と。
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糸井 |
そうやってできたのが、この地図。
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千田 |
たとえば、この「三陸道のバイパス」なんか
コストの面から言って
誰が考えたって「トンネル」なんですよ。
トンネルを掘って
気仙沼を通り抜けて行く‥‥という構想。
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糸井 |
はい。
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千田 |
でも、ほんとそれでにいいのかなぁ‥‥と。
だって「気仙沼を通ったよ」というだけじゃ
「こころに何も残らない」じゃないですか。
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糸井 |
こころに。
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千田 |
何かが「こころに残る」ようにしたい。
であれば、海から気仙沼を眺められるように
「橋」だな、ということで
ま、強引に橋をかけちゃったわけです。
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糸井 |
なるほど。
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千田 |
もちろん、現実には橋はかかってませんよ。
「次に来るときは、
子どもたち連れて来よう、孫を連れて来よう」と
そんなふうに思ってほしくて
まぁ、勝手な絵を描いたというわけです。
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糸井 |
へぇー‥‥。
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千田 |
そういう地図、なんです。
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糸井 |
いやぁ、噂はよく聞いてたんですよ、
気仙沼の人たちから。
たしか新聞に挟み込んだんですよね?
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千田 |
この地図、つくったのは平成12年なので
いまから11年前ですけど、
当時、これの「4分の1サイズ」のものを
4万枚印刷して、家庭に配りました。
家のなかでしょっちゅう目にしてもらって、
「橋っていいよな」と
いつの間にか思ってもらえたらいいなって。
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糸井 |
「いつの間にか」(笑)。
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千田 |
そんな思い上がりで、この絵を描きました。
で、こっちが
今回の「津波以後」に、つくった地図です。
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糸井 |
おお。
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※画像をクリックすると拡大します。 |
千田 |
復興の動きに関しては、
やはり
「議論ばっかりで、なかなか前に進まない」
という状況はよくないので
津波から3カ月の「6月11日」を期して
こちらも4万枚お配りして、
「みなさん、少し元気出そうや」と。
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糸井 |
こういう町づくりを
みんなで考えてみてはどうか‥‥と。
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千田 |
陸のほうは特別なことないんですけど
見ていただきたいのは、海のほう。
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糸井 |
えー‥‥。
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千田 |
わたしが提案したのは
もう、埋め立てなんかやめにして、
500メートルごとに
いつでも避難できるようなビルを建てて
津波が来たら
みんな、そこへ逃げ込むという計画。
どうして500メートルごとかっていうと、
人間が急いで歩いたら
1時間6キロメートルって言いますから。
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糸井 |
つまり‥‥。
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千田 |
1分になおすと、100メートルでしょう。
500メートルごとなら、
5分以内に近くのビルに逃げこめるから
命だけは
なんとか助かるんじゃないのか。
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糸井 |
つまり、海の近くはなるべくそのままで
一定の間隔で大きな建物をつくる。
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千田 |
それから、議論もいろいろありますけれど
鹿折に流れた大きな船、
あれはやっぱり残しておくべきであろうと。
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糸井 |
あの、有名になっちゃった船。
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千田 |
たしかにいまは、まだつらいですよ。
でも、こういう歴史があったことについて
学ぶことのできるものを「残す」ってことは、
やはり大事だと思っているんです。
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糸井 |
そうですよね。
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千田 |
今回、地図でいちばん表現したかったのは、
「はやく復興しないと
商売してる人たちがダメになってしまう」
ということでした。
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糸井 |
ほう。
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千田 |
行政が「まずは埋め立ててからです」とか
言っているうちに、
商売というのはダメになってしまうんです。
ですから「人の命」と「仕事」と
その両方を守っていくための妥協点を探り、
両立できる方法はないだろうか、
そういう意味でこの地図をつくったんです。
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糸井 |
つまり、たんなる「夢」じゃない。
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千田 |
逆に言えば‥‥「花の道」ができたら、
気持ちが和やかになるじゃないですか。
ぼくらが「こういう町にしたい」という像を
絵にした地図なんです。
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糸井 |
でも、こうして改めて見ても
つくづく「平地」の少ない土地ですよね、
気仙沼って。
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千田 |
いま、4カ所に建築制限がかかっています。
今回の震災で
気仙沼の「5.6%」が被災しましたけど、
そのうちの「5%」くらい。
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糸井 |
ええ、ええ。
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千田 |
でも、気仙沼の経済の「85%」くらいが
その「5%」に集中していたんです。
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糸井 |
つまり「沿岸部」に。
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千田 |
そう、沿岸部が壊滅したということは、
気仙沼の産業が
ゼロになったといっても過言ではない。
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糸井 |
そうですね。
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千田 |
気仙沼という町は
魚市場でがんばっていこうということで、
震災前は
「水揚げ300億」を目標にしていました。
実際には、250億円前後を推移していて、
日本で7番めくらいだったんです。
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糸井 |
そうでしたか。
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千田 |
それらを水産加工し、付加価値をつけて、
売上としては
「1000億」を目指していました。
目標にはなかなか届かなかったけれども、
それでも、
こんな小さな町でも
700億、800億を売り上げていたんです。
その経済が、ひっくり返ってしまった。
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糸井 |
‥‥はい。
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千田 |
復興についての議論も、百出でした。
たとえば「水産加工」については
「山手のほうでやったらどうだ」という意見も
出たんです。
しかし、水産加工をやっている人たちは、
「山手じゃ無理だ」と言います。
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糸井 |
それは、何か理由が?
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千田 |
これまで、水産加工の工場というのは
海から数十メートルの場所に建てられていました。
なぜなら、水産加工業には
1日に、何百トン何千トンという量の海水が
必要になるから。
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糸井 |
そうか、そうか。
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千田 |
真水だと商品が傷んでしまうんですね。
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糸井 |
つまり、山のほうで水産加工をやるには
ものすごく長いパイプを引く‥‥
みたいな理屈になっちゃうんですね。
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千田 |
それは、なかなか現実的なことではない。
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糸井 |
ええ、そうでしょうね。
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千田 |
いろいろお聞きしてみると
わたしたちが想像していたのとちがう話が、
たくさんたくさん、出てきたんです。 |
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<つづきます> |